クラスメイトが渦を巻いて歪んだ光景をはよく覚えている。
最初に溶けたのは男子生徒だった。
彼の腹は熱した鉄のようにどろりとして、その体は輪をかけた。腹に続いて胸、太ももと、ぐるぐる、ぐるぐる、あらゆるところを巻き込んで渦は綺麗に広がっていく。肩が溶け、足が溶け、顔も、指も、先まで溶けてどこを形成していたのかわからなくなるくらい崩れたら、何かに飲み込まれるように消えてしまった。
次は担任教師だった。その次は窓際の女子生徒。今度は男子生徒の時のように待つことなく、一人、また一人、ぐにゃりぐにゃりと混ざっていく。
叫び声、窓から飛び降りようとする者。抵抗に掴んだ机が引き摺られ、ガシャンと音を立てて倒れても、騒音の一つとしてかき消され誰かに注目されることはなかった。
手首を掴まれて、とうとう自分の番がきたのだと、の身は竦んだ。得体の知れない現象に巻き込まれるにしては、皮膚に伝わる力強さはやけにリアルなものだったけど、それよりも逃げられないと思う恐怖の方が強くて目をつむった。
「ごめん」
目を見開いたところには、何もなかった。
先に消えたクラスメイトがいる訳でもない、誰もいないところだった。
「ごめん、巻き込んで」
なんとなく、自分だけ別の場所に飛ばされたのだとわかった。
振り返って掴まれた手の先を睨む。助けてもらった相手に向ける目ではなかったかもしれない。でも許せなかった。
きっとクラスはまだパニックの最中だろう。
非常に不本意な形だが確かにあの日、は一人だけ救われた。
一六一五年。
「審神者様! お急ぎください!!」
「急げって言うならもうちょっと前に飛べばいいんじゃないかな!!」
辺りはごうごうと燃えていて、思わず口を開ければ熱風に中を容赦なく炙られた。
「こんのすけとて同感ですが、早い段階で刀剣を回収すると、時空に歪みが発生する可能性もございますので!!」
そう急かす狐は丸く、狐なのだがどちらかというと狸か小型犬のような成りだった。
彼が促す先は白々しい黄色と橙の炎に囲まれている。
息が苦しい。立ち込める熱気と煙に目は乾燥されるばかりで、脂肪が燃える臭いは醜悪だった。辺りには燃えかすんだ火の粉が絶えることなく舞い上っている。文字通り目を焼き付けそうな眩さは、それらがなければ見惚れるものだったのかもしれない。
一六一五年、五月。徳川家光率いる徳川軍は、豊臣秀頼率いる豊臣軍を殲滅させる。
周囲の二の丸、三の丸を既に破壊していた徳川軍は、豊臣家最後の本丸である城郭に火をつけた。
両軍の兵力はおよそ二十万対十万。資金は削られ、頼りになる家臣は既に亡くし、当主は戦の術を十分に学ぶ間もなく挑むことになった。ほとんど最初から決まっていた負け戦だった。
とこんのすけは大阪城へ来ていた。
「遡行軍の影響で、今回回収しなければ鯰尾藤四郎は完全に焼失します」
上から告げられ、は急遽まだ薙刀である鯰尾を回収することになった。
時間を移動できるほど科学が進化しても、目的の刀がどこにあるのか明確な位置までは掴めない。事前に機械で確認することも敵わないと言う。
鯰尾藤四郎が当時大阪城のどこにあったのか。その探索方法はこれまでの文献からおおよその推測だけを立て、あとは生身の人間が探さなければならない。非常に頼りないものだった。
(ほんっと、最悪ですね)
声に出して本部を罵りたかったが、先程痛い目を見たばかりだったので我慢した。
目当ての刀が見つかる前に、下手をしなくとも審神者が死ぬ。遡行軍との戦いに辿り着く前に死人が出る。絶対死ぬ。きっと政府は人知れず亡くなった審神者の案件を裏で揉み消しているに違いない。大体、本来脇差であるはずの刀を薙刀のときに横取りする時点でこちらも大なり小なり歴史を歪めているのだから、もっと安全なタイミングで取りに行けないものだろうか。
詮無い文句をぶちぶち考えていると、こんのすけが「大丈夫ですか」と気遣ってくる。振り返る彼は平気なようだ。
普段上への愚痴をこぼしあう気さくさから忘れていたが、そういえばこの狐は普通の動物ではなかった。てっきり人工知能の機械かなにかと思っていたが、この灼熱にも支障をきたしていないところを見るに式神寄りなのかもしれない。
最上階には展望台があり、平時はその一つ下の階で暮らしていたという記録から、転送箇所は一応そこにしたが、これで地下の武器庫に置かれていようものなら最悪だ。本当に辿り着く前に死んでいるかもしれない。ここが平常な場であれば背筋に寒気のひとつでも走っていたのだろうが、あいにくの温度感覚はとうに麻痺している。
「……あった」
立ち並ぶ柱の一番奥、曲がり角に入る手前の部屋でようやく見つけた。炎に覆われた壁に横に立てかけられた黒い影。上から薙刀が三本、太刀が二本。
どこも空きがなく綺麗に揃っているところを見るに、今回の戦に使われることはなかったようだ。……あるいは、もはや抵抗してどうにかできる状況でなかった、という方が正しいかもしれないが。
「こんのすけお願い」
前を導いてくれた狐を下がらせ、脱いだブレザーを預ける。腕をまくり、一、二度小さく呼吸をして、掌に浮かんだ脂汗をスカートで拭う。もう一度小さく息を吐いて、一気に手を火の中へ突っ込んだ。
上の三本を全て取り終えると、それぞれがこんのすけに見えるよう下へ落とす。
「これです!」
一番右の薙刀に顔を寄せてこんのすけが言う。
「刀身に線が入っております。間違いありません。鯰尾藤四郎です」
「そう」相槌はあまり声にならなかった。刀剣をなんとか見つけだせた安堵から気が抜け、彼女の意識はより朦朧としだしていた。相当の火傷を負ったはずの掌は痛みを感じず、肌に感じる温度はいっそ涼しくなってきた気さえする。
皮膚が爛れてピンク色になった腕でブレザーに鯰尾を包み、抱きかかえる。
「……遅くなってごめんなさい」
刀身は史実通り焼けてしまっていた。
「戻ろう」
「はい」
本丸に戻ったら脇差へ焼き直しをして、その後顕現もしなければならない。やることはたくさんある。
こんのすけが右の前足を三度叩くと人ひとり通れるくらいの小さな鳥居が現れる。足はそちらに向かう。しかし、残した刀達が目の端にこびり付いて離れない。早く鳥居をくぐった方がいいのはわかっているのに、どうしてもそちらの方を見てしまう。 畳に置いた二本と、今もなお壁で燃やされている太刀の二本。
「審神者様」
釘を刺す声にの肩が跳ねる。
「いずれ全て元に戻すとはいえ、このような対応は本来例外なのです。我々から歴史を歪ませることは極力最小限にしなければなりません」
瞼をわずかに下ろした黒目が彼女を鋭く射る。
「……わかってるよ」
だが、顕現できるかどうかはやってみないとわからないじゃないか。
不満を持ってみたところで思い浮かべた理由はたまたま見つけた刀剣達を、このまま見逃して後味悪い思いをしたくない言い訳に過ぎなかった。溜飲は下がらなかったが背を向ける。どうせ見つけなければ助けることはなかったのだ。
突然外から大きな爆発音がする。達はそれにせっつかれながら慌てて鳥居をくぐった。
おそらく、外で櫓が爆発したのだろう。読んだ本では蔵まで追いつめられた秀頼が火薬に松明を落として自害していたから。
「おはよう」
目が覚めると見知らぬ相手が二人いた。
「…………おはよう、ございます」
男と女。どちらも初めて見る顔だ。
体はふかふかの布団に埋まっている。自分でちゃんと敷いてから寝た自信がなかったため、は上体を起こしながら己の本丸で挙動不審な動きをすることになった。障子や部屋の造りなどきょろきょろ辺りを見回したところで、他の本丸どころかこの時代の他所の家さえまともに見たことがない彼女にはそもそも確かめようがなかったが。
「ええと……」
「審神者様、おはようございます!」
眉を八の字にして視線を彷徨わせていただったが、いい加減隣人に首を向けようと腹をくくりかけたところで、小さな狐が胸に飛び込んできた。肩に乗る前足は軽いのだが、いかんせんまだ慣れない隈取りにずいっと間近にまで迫られ、体が少し仰け反る。
「近くの時代を任されている審神者殿でございます。鍛刀場で眠ってしまった審神者様をここまで運んでいただきました」
「ゆすっても引き摺ってもさっぱり起きないんでな、悪いが勝手に色々やらせてもらった」
審神者は事情を説明すると、の目線の高さにプロジェクターで投影したような画面を出した。空中に浮かび上がる半透明の画像には顔写真と登録番号、担当時間軸、所持刀剣などが書かれた登録証が映し出されている。所持刀剣の箇所に一振りしか表記されていなかったので、これが審神者の隣で居心地悪そうに座っている青年の名前になるのだろう。
あらためて自分の手にまじまじと目を向けると綺麗に包帯が巻かれていた。審神者の言う色々とは、おそらくこれや、今いる布団のことだろう。なるべく動かせるように、しかし爪先まですべて厳重に巻かれてある。
「上から君の報告がないと連絡があってね、大阪城へ刀剣回収に行っていたというから心配していた」
「それは、ご迷惑を……」
「構わない。他にも痛むところがあったら言って欲しい」
「あ、はい……」
審神者にひとまず会釈なのか頷きなのか判別がつかない、もしかしたら、ただ顔を背けてしまっただけにも見える曖昧な動きをしてから首を右へ回した。そこには自分と同じように布団を被せられた人物がもう一人いる。
彼はまだ寝ていた。髪が長いのもあって少女のようにも見えるが、掛け布団をめくれば喉には隆起があり、下に続く胸はなだらかだ。
持ち上げていた布団をそのままバッと剥ぎ取り、少年の体をベタベタ触っていく。肩を何度かやわく掴み、二の腕をなぞり、肘や手首が動くか確かめる。「あの、審神者様……」鯰尾藤四郎の刀身は焼けてしまっていた。半分裏返して折った状態だった布団をもう一度めくり、中を覗き込む。足も先までちゃんとついていた。五体満足。素人目だが怪我もなく、診た限りではどこも問題ないように見えた。思わず小さなガッツポーズが出たところで、背後の噴き出す音に他に人がいたことを思い出した。若干顔に熱が走りながら後ろを伺うと、上半身をかがめた審神者の体がかすかに震えている。隣の青年も己が主を見て硬直していた。
顔を上げた審神者は笑っていた。
いい人だとは思っていたが、表情もなく、必要最低限しか話さない人だと思っていたので、も青年ほどではないにしろ固まった。
「無事に化現できててよかったな」
「……はい」
「鯰くん」
「はぁーい」
呼びかければ後ろで束ねた一房がふわっと揺れる。
庭先で竹刀の素振りをしていた少年は懐っこい笑顔で、縁側の主までかけ寄る。人間でいえばと同じ歳くらいの姿の少年だが、なんだか小さな子犬を彷彿させた。
容赦なく主人の手を噛んでくる腕白ではあるが。
縁側まで来た鯰尾は目の前の彼女の眉間をぐりぐりと押しつける。別には皺を寄せてもいない。
「ごめんね、ちょっと荷物が多くなりそうだから、一緒に買い出しに行ってもらっていい?」
「わかりました」
「ありがとー」
「いえいえ」
額に当たる指先が汗でわずかに湿っていてひんやりする。
この手のやりとりはも慣れたもので、表情を変えることなく鯰尾の腹をつつき返していた。
「……」
「……」
「主ー、出かけないんですか?」
「鯰くんがやめたらやめる」
「えー……、あ、脇はダメですって……っはは! ひぃっ!!」
体をよじった鯰尾が腕で腹部を庇ったことで、のつむじに乗っかっていた小さな圧力も離れた。
勝った。
ちょっと誇らしく鼻を鳴らすも、すぐに頬を摘まれそのまま強く引っぱられる。
「なにほするんへふか」
「あはは、よく伸びますねぇー」
「なまふふん、ひみあるひってよふならもうふほひふひゃまえええ」
「主、馬鹿っぽいです」
完全に舐められていた。
あれから少年は目を覚ました。
鯰尾藤四郎は身体こそ外傷がなかったものの、内部は記憶を一部失っていた。物が記憶を持っていることだけでもまず驚きだったが、何百年も生きているなかで忘却ではなく自身で「欠けている」と自覚のある喪失。一体何を失くしているのか興味はあるが、まさか脇差になった経緯がわからないとでも言われたら、確実にが主犯だったので恐くて聞けなかった。
人の身を象り始めたばかりであることも含めなにかと不安定になることもあるかもしれないと思い、多少のちょっかいは好きにさせているが不満なものは不満だ。
鯰尾はひととおり頬の伸びを堪能したらしく、懸命に剥がそうとした手はあっさり取れた。全く離れない力で摘まれていたため、ちょっと本気で痛い。まだヒリヒリする。
「はぁ。あちこち触られるわ、ちょっとやり返しただけなのに本気でつねられるわ、しまいには馬鹿と言われるこの理不尽」
「負けず嫌いだなぁ」
ムッとしたの態度など歯牙にもかけず、呑気に笑いながら今度は髪をいじってくる。
「もとはといえば鯰くんからやってきたんじゃないですか」
鳩尾でも狙えばそう呑気に笑っていられなくなるだろうか。物騒なことを考えながら少々キツめに腹をつつく。次舐めたら本気でヤる。
「主って呼ぶときなんかもそうやってちょんちょんつつきますけど、つつかれる方がくすぐったいんでやめてほしいです」
「え、じゃあつつくのやめる。触る方にする」
くすぐるためにしたのではないし、嫌がられることをしたい訳でもない。とはいえ、今はじゃれあいではなく攻撃が目的だ。どこにしよう……やはり頬をつね返すか……そう顔に目線を向けたところ、さらに上のものに目を惹かれた。
背伸びをして頭を撫でる。
てっぺんよりわずかに手前。
「ぴょこぴょこしたものがあるからやっぱここかなぁ」
「ああ、寝癖。これだけは直らないんですよねぇ」
これは寝癖なんだろうか? 撫でても押さえてもしばらくするとまたぴょこんと出てくる。まあ、可愛くていいんじゃないか。
謎の触角にすっかり夢中になっていたは「攻撃」という当初の目的をあっさり忘れていた。
「そもそも最初に触ってきたのは主の方ですよ」
「んー? いつー?」
「俺が意識ないときに」
「そんな寝込みを襲うような真似はしてないよ!?」
とんでもない汚名だった。
だから尊敬されないんだろうか。
「えー、でも審神者さんのお兄さんが言ってましたよ」
審神者さんのお兄さん……鯰尾の実体化直後、気絶したの面倒を見てくれた審神者の刀剣男士だ。
つまり鯰尾は最初に無事に顕現できたかチェックしたときのことを言っているらしかった。そういえばあの青年はの行動を止めようとしていた唯一だった。そうはいったって……
「あの点検みたいなのをカウントされても」
確かに遠慮なくベタベタこねくり回したが。
あくまで確認のつもりでしかなかったは小さく唸る。
しかし鯰尾は相変わらずこちらの不満など気にかける様子もなく切り捨てる。
「でも、事実馬鹿っぽくないですか」
「まだ言う……」
はあほ毛を弄ることばかりに夢中でずっと見えていなかった。
両手がもう一度の頬を摘む。今度は触れる程度で痛くない。
「この距離とか」
考えていたよりもずっと、近い距離で鯰尾が微笑う。
「……ああうん、まあ……」
「ね」
二人だけの本丸でよかった。
おかげでろくろく人に醜態を晒すこともない。
反省したは鯰尾の肩についていた手を離し、隣に普通に立つくらいの距離を取る。頭を触るために背伸びをし、寄りかかっている自覚はあったが、なんかもう寄りかかるというより乗り上げるくらい密接していた。
どこのバカップルだ。
そもそも「やられたらやり返せ」精神でこの程度のやりとりに勝ち負けをこだわる彼女の思考がまず幼いのだが、この馬鹿は(全く反応しないのも、それはそれでなんか、愛想ないよなぁ……)と考える馬鹿なので駄目だった。きっと、"ほどほど"という言葉を知ることもないまま死んでいくのだ。救えない馬鹿だ。
残念なことに、はこの期に及んでまだやり返すか我慢すべきかしばし悩んでいたのだが、さすがに先程の密着が堪えたらしい。ようやく当初の目的に頭を切り替えた。
「まあ今日はいいや。買い物行こう」
本丸は結構広い。名の通り城の体相をしていないだけマシなのかもしれない。それでも二人しか住まない日本家屋としてはいささか立派過ぎた。
どれくらい広いかといえば、玄関と外の門の間に大股で十五歩ほど歩かなければならない距離がある。の家には門などなかった。玄関を開ければ直ぐ外だったし、ドアから顔を出しただけでポストの郵便物は取れた。だがこの本丸には門のところにしか郵便受けがない。ちょっと面倒臭いし、送られてくるものは政府からの月一の戦績くらいなのであえて見に行くことも殆どなかった。
寺の山門のような大仰な門の隅に小さく作られた木製の郵便受け。その差し込み口から白い手紙の端っこが覗いていた。手紙と言っても封も切手もない。中の本文を更に紙で包んだ体のものだ。真ん中に「果たし状」と書いていればさぞかし似合ったことだろう。上はこの本丸の環境造りを少々楽しみ過ぎやしないだろうか。
「……過去なんてどうでもいいのに」
手に取った封書を見て、鯰尾が小さくぼやく。
さっきまでの穏やかな声が、意地の分だけすこし、太く張っていた。
包みを開こうとしていた手を止め、は苦笑いだけ返す。
彼には一部だが記憶がない。持ち得ていないのなら他で補うか、無理矢理にでも前を向かざるを得ない。他に選択肢がないのだ。
刀によっては過去の主のことをよく話す者もいるという。もしかしたら鯰尾が失ったのはこれまでの主との思い出なのかもしれない。自身に一心に向けてくれる信頼を受けながらは思う。
自らの心中をわざわざ言うことはない。傷口に触れそうなところにあえて塩を塗るつもりはなかったし、自身も考えを譲るつもりはなかった。
適当に笑って誤魔化して、届いた手紙は小さく小さく畳んで上着のポケットに収めた。
「主?」
食糧を買い、資材も買い、町を出ようと差し掛かったところで突然の足が止まった。鯰尾が呼びかけても横を向いたきり返事もない。仕方なく主越しに覗き込んでみれば櫛や簪など、女性が好みそうな装飾品が茣蓙の上に並べられていた。
「あー、髪伸びてきましたもんね」
鯰尾は隣で耳を丸々覆い隠している髪を見たが、の思考は別のところだ。
頭によぎるのは最初、彼女に連れてこられたときに汚れてしまった紅い記憶だ。
もともと臙脂色だったからあまり変わりはなかったのだが、乾くにつれこびりついて取れなくなった黒いシミに、使い続けることは諦めた。
「買うかい?」
食い入るように髪紐を見つめるに店主が声をかける。「うーん」悩む素振りをしたもののすぐに欲の方が勝った。
「じゃあ、お願いします」
商品を指差して受け取るとすぐに身につけた。目を丸くしている鯰尾や店主をよそに、は一人満足している。
「主、飾り紐ってそう使うんじゃないんですよー」
「知ってるー」
髪にではなく胸元に。
赤い髪紐はワイシャツの襟元でちょうちょ結びで飾られた。
「…………えー……」
主は既に呑気に悦に浸っていて、肩にかかる髪はどうするつもりもないようだ。確か食事や筆を手にしたとき、なにかにつけて垂れてくるそれを鬱陶しそうにしていたはずだが。
そもそもなぜわざわざ胸元につけるのか。飾りっ気がない人だと思っていたが、やはり装飾品の一つは欲しかったのだろうか。それにしても変なところだ。
鯰尾には己の主が何を考えているのかわからない。
「仕方ないですねー」
きっと、意見が合わないことだけは確かだが。
「おじさん、これください」
「はいよ」
「主、動かないでくださいね」
荷物をいったん全て地面に置き、の髪を軽く梳く。
「? ?」
「あげます」
襟足で結ばれた布先は、左右にそれぞれ綺麗な菱形を作っていた。
「お揃いですね」
できた尻尾を軽く引いて振り返ればにっこりと笑う。
悪戯を分かち合う子供っぽく、少し意地悪そうに、純粋に楽しそうに。
そうも嬉しそうに笑われるとむずがゆくて、落ち着かなくて、奥底でずっと押し固めていたなにかが揺らぎそうで。
はうろうろと視線を動かして、鯰尾の方をもう一度は見ないようにした。
「おかえり」
「審神者さん」
本丸へ帰ってくると、門扉に黒シャツ黒スーツの女性と鯰尾に告げ口した青年が立っていた。
審神者が掲げた四角い包みを見ただけで、の舌に唾液が広がる。すっかりパブロフの犬だった。
ともあれ緑茶を用意しようと、自らも門を通るついでに二人を招き入れるが
「あ」
ちょうど門の真下でまずいことを思い出した。
「どうした?」
「……ごめんなさい。私、手紙読まなきゃ」
出かける前にポケットに入れっぱなしだった政府からの手紙。どうせ戦績だとは思うが……。口の中に広がっていた甘い錯覚がなくなっていくことに気持ちがすっかりしぼみつつ、三人を庭に残したは一人だけ縁側に上がる。
「ついでに荷物片付けて、お茶も用意してきますねー」
「いってらっしゃい」
「先に食べてますよー」
「えー……。いいよ、もー」
最後まで出していた首を引っ込めて、障子が閉まる。
「……」
「そう怒ってやるな。あれも仕事だ」
青年が風呂敷を広げ箱から出したみたらし団子を、仕切を見続けていた鯰尾の手に持たせる。自身はよもぎの串をその手に取って。
「……そうですね」
茶色い照りをくるくる眺めながら息を吐くと一緒に相槌を打つ。
むくれたまま食べても味が下がる。残りの溜飲も飲みきってから、団子を口に入れた。
「おいしいです」餡の甘さに気分も晴れた。
菓子の力は偉大だが、この少年は基本切り替えが早い。そうだ、と思い出すと岩に腰掛けていた審神者の方を向く。
「審神者さん」
「うん?」
「あ、審神者さんもどうぞ」
「君ら本当に先に食べるのか」
「早くしないと審神者さんが好きなこしあんも食べちゃいますよ。あと磯辺は残しといてください」
「よくそんな喉が渇きそうなチョイスを続けざまに食べられるなぁ」
そう言いながらも手にはこしあんを取っている。
「んで、なんだ」
「そうそう。これって何か意味あるんですか?」
「意味……」
鯰尾が指したのはネクタイだった。審神者は首を捻る。自身の服にも元々備えついているから装着してはいるが、着けている意味など考えたこともなかった。
「意味は、知らない……え、なんで?」
「主が髪紐わざわざ買ってこっちに着けてたんで」
鯰尾は自身も首元で結んでいるそれをひらひら揺らす。
「ああ」
「でも髪の方にもつけてたじゃないか」
「あれは俺が買ったんです」
「あー、……そうだな。意味は知らんが、学校の制服があんな感じだったんじゃないか?」
「ガッコウ?」
「ここでの寺子屋みたいなものだ。あれくらいの子供が集まって勉強するところ。で、学校ごとにああいう共通の格好があるところが多いな」
「へー」
「それで髪の方はほったらかし、ってところか」
「そうなんです。でも主、あんまり上手く結えないみたいで、使いにくそうなんですよねー……」
「緩んでるぞ、顔」
青年のぴしゃりとした指摘に、審神者は口を手で隠しながら震えている。
「…………まあ、本当に気にしてるんなら、今度シュシュもやったらいいんじゃないか。それなら使いやすいだろうし」
目尻を拭いながら出した審神者の提案に鯰尾は首を傾げる。
「何ですかそれ?」
「伸びる紐を布の中に入れた輪っかだよ。結構簡単に作れる」
「へぇー、いいですねそれ。あ、でも……うーん。……やめておきます」
「そっか」
「はい、せっかく主にくっつけるいい機会なので」
「……胸焼けした」
「大丈夫ですか? やっぱお茶が欲しいですよね。主まだですかねー」
「わざとかおまえ」
「しかし、確かに少し、長いですね」
青年までも心配そうに視線を後ろに向ける。
「……整理に時間がかかってるんじゃないか。随分買い込んでたみたいだし」
「それならいいのですが、」
目を細める青年の空気に、僅かだが鯰尾の背筋が粟立つ。
無意識の反応に首を捻りながらも席を立ち、「俺、ちょっと見てきます」と言うつもりが「ちょっと」のところで鼻先で障子が開かれた。
ぶつかりかけた文句をかけようとしたのに、出てきたが常時には似合わない真剣な顔をしていたため飲み込んでしまった。
「鯰くん」
「仕事の話か」
「すみません」
「いや、こっちこそ悪かった。帰るか」
「はい。審神者様、磯辺は残しておいたのでどうぞ召し上がり下さい」
出て行く二人を見送った後、は鯰尾に部屋に入るように促す。
「鯰尾くん」
「はい」
背筋を張って正座をし、名前もちゃんと呼ぶ主に影響され、鯰尾も思わず居住まいを正す。
「もう一度、大阪城に行くことになりました」
「薬研藤四郎──、鯰くんと同じ名前だね。その薬研くんが大阪夏の陣の頃に見つかったって話があったんだ」
「やげん」
「但し、今回は堀の辺りらしいところまでわかってるから城に近付くことはないし、回収だけで戦う訳じゃないから私だけで行ってもいい」
「どうする?」意思を尋ねたを鯰尾は正面から見返す。
「行きます」
はっきり告げられた返答に苦笑するしかない。
できれば行かないように仕向けた思惑は、全く効果がなかったようだ。
「なんで一緒に回収できなかったんですかね?」
自分を回収するときに一緒にできれば、こんな二度手間にもならなかったのに。心中をそのまま代弁してくれた言葉には何度も頷く。
歴史改変は最低限。どうしてもやむを得ない場合に限る。
そのため刀剣回収は刀が歴史から消滅するギリギリのタイミングでしか行えない。理屈としてはわからなくないが、こう、効率や実際の危険性諸々を考えると、もう少しどうにかならないものかと思う。つくづく上とは馬が合わない。
「薬研……、薬研藤四郎かー。同じ粟田口なんですよね。じゃあ弟になるんですかね」
畳に広げた地図を眺めながら、脳に擦り付けるようにしみじみと鯰尾が言う。
「わかるの?」
「なんとなく」
多過ぎて、全員と一緒にいた訳じゃないんですけどね。漏らしながら照れくさそうに頬をかく。
「どのくらい?」
「えーと、薬研、骨喰、乱、厚、秋田、前田、平野、五虎退、それからー」
「……すごい多いね」
「俺も、審神者さんのお兄さんに教えてもらいました。だから全部は知らなくて……」
「でも」
兄弟のことを話せる嬉しさと、少しの気まずさをないまぜに笑った後、あらためてゆるゆると噛み締めるようにはにかむ。
「変なの。一度も会ったことないのに、なんか会うの、すごく楽しみです」
そう笑う横顔からは視線を下の資料にそらす。
あまり見たくない横顔だった。
「薬研が回収できたら主が顕現するんですか?」
「どうだろう」
口振りだけは疑問の体をしていたが、明らかにゼロだとわかる。愛想のない返事をしている。
申し訳なさは頭を覗かせていたが、八つ当たりを直すこともできず、察した鯰尾が気分を平時のものに戻す。
「じゃあ、確か同じ粟田口の刀がほかにもいたと思うんですけど、それは載ってませんか?」
兄弟全ての名前は知らないが、その刀の名前は最初から知っている。
同じ城で、かつて同じ主に仕えていたのだから。
「一期一振っていうんですけど」
は左手の近くにあった政府からの指示書を自分の体で隠れる角度で開く。そこには回収すべき刀剣のリストも書いてあった。
首を横に振って答える。
「……ここににいるのは薬研くんだけだね」
鯰尾は知らない。
彼がまだ眠っていたときに審神者が出した登録証。そこに記されていた名がそれだということを。
いつも審神者と一緒に来ている青年が、鯰尾の前では決して自分の刀を見せようとしないことを。
いつか、彼の忠義はこれまでの寄りべとなる主の記憶がないからと思っていた。
本当はわかっている。
悪者はだけだ。
鯰尾藤四郎は炎で自らの記憶を失い、主を失った。
だから彼は身の危険に敏感だ。ちょっとした不注意でもはよく怒られる。
あれは、記憶の喪失による脆さからくるのだと思っていた。思っていたかったのに、実際はただ世話焼きなだけだった。
あのひたむきさはあくまで彼自身の性質だ。
同じところまで引きずり下ろして安心したかった。刀でも人間でも誠意だけで支えられる強さなどないのだと。彼の善意を汚してしまいたかった。
こちらを真っ直ぐ見据える目など見たくなかった。
少しの震えも揺らぎもなく届く声など聞きたくなかった。
そんな綺麗な真実があるとつきつけられたって、どうせ裏切ることしか返せないのだから。
きっと、審神者達は刀剣の中で一番最低な主になる。
呼吸が少し苦しい。手に汗が滲む。胸元で紐を結ぶ手がおぼつかない。体が震えることはなかったが、できることならうずくまって動きたくなかった。
馬鹿だ勝手だ最悪だ。涙まで出てくる。
三粒目が頬に伝ったところで高ぶりを抑えるために、一度大きな息を吐く。
たった一人の刀剣からもらった髪布。
「お揃いですね」
渡してくれたときの穏やかな声を思い出す。
しっかりくくらなければ、まだ下手なの手ではほどけてしまう。結び目の根元からきゅっと強めに引っぱれば、気持ちも少し強くなった気がした。菱形が左右にピンと立ち上がる。
掌の汗は乾いた。息苦しさももうない。涙も止まった。
だからきっと大丈夫だ。
は意を決して部屋を出た。
「最初とこんなところまでしかお供できないなんて、申し訳ございません」
こんのすけは謝罪に下げた頭を戻さず、そのままうなだれてしまう。
「こんのすけは自分が不甲斐ないです……」
「いいっていいって。それにこれ、ありがとうね」
毛が垂れ下がり一層小さくなってしまった子狐に、は笑いかけ傍の空中を左手でコツコツと叩く。ちょうどその斜め後ろの頭上辺りをどこからか流れてきた矢が鋭くぶつかるが、見えない壁に阻まれ地面に落ちた。霊力を圧縮したシェルターだ。少なくともこの時代の矢や弾丸くらいならたやすく撥ね除けられる。
「よし、できた」
こんのすけの背中に鯰尾の刀をくくりつけると、巨大な立方体を元の小さな箱に戻す。
器の方の鯰尾は達の足下の更に下。堀の中で薬研藤四郎を探している最中だ。刀剣男士の体は本体さえ無事であれば呼吸に苦しむことなく水底を歩くことができる。
ただ「可能だから」と、この堀の中を歩かせるのは心のない鬼がすることだった。
敵の奇襲を防ぐため、おいそれとは乗り込めない大きな窪み。城郭とその敷地を取り囲む溝はただでさえ馬鹿広い範囲なのに、今や落ちた兵や馬の死骸と血にまみれている。水面からはかなりの距離があるのに上から覗き込んだだけでも異臭が漂ってくる。
本来なら審神者も中に潜るなり舟から櫂を使ってなりで探さなければならないのだが、の目的はそれではない。鯰尾に告げた、反対側に向かって右側を鯰尾、左側を、と二手に分かれて探す作戦は嘘だった。
はサイコロキャラメルくらいの大きさになったシェルターをポケットに入れると、こんのすけの下顎を撫でる。
「じゃあこんのすけ、鯰くんのことは頼んだよ」
「はい。審神者様、どうかご武運を」
「あ、」
なるべく身体を木々に沿いながら隠れて歩いていくと、目的の人物はわりかしすぐに見つかった。
角の隅で上着を絞る黒シャツ黒スーツ。
「なんだ、君か」
額に貼りついた髪を耳にかけたことで、いつもは隠れがちな黒目が覗く。
「審神者さんも同じ任務だったんですね」
「みたいだな。見つかったか?」
「いいえ。薬研藤四郎は鯰尾くんにまかせてるので」
「薬研「は」?」
「はい」
の含んだ言い方を審神者が訝しむ。
「鯰くんには黙ってたんですけど、もしかしたら、中にもあるかもしれないって……」
「……あの火の城に入るのか」
審神者の目が呆れている。
見上げた林の向こうでは、まさに今大阪城が火を注がれているところだった。
「できれば」
「仕事熱心だな」
溜息を吐きながら彼女は絞り終えたスーツを羽織る。
「まあ、乾かすにはちょうどいいかもな」
「あ、ありがとうございます!」
ブレザーも髪紐もきっと、すべて焼けてなくなってしまうだろう。
でも、どうせすぐまた本物を着られるようになるのだから問題ない。
炎の中なら、彼も来ないだろうから。
一階から入った大阪城は、最初のときとは違いそれなりに人が残っていた。
「まだ息があるかもしれないから、一応見つからないようにな」
「……」
人がいることにはいたが、誰も皆、少なくとも視界に収まる範囲の全員が、腹から血を出して動かなくなっていた。女性や年端もいかない子供ばかりだ。その彼らが皆、腹を切って自害していた。
「つくづくこの時代の価値観は合わないな」
審神者は軽く溜息を吐いただけで、慣れた足取りで進んでいく。
「それで、どんな刀だ」
「ええと……」
口籠って後を続けないを見て、審神者がもう一度息を吐く。「もういっそ全部回収するか」……それは確かに、一回目のも思ったことだけど。いざ平気で女中の腹から刀を引き抜く彼女を見ると絶句しかない。
「?」
ちりちりと視界の端でなにか光が入ってくる。
目に刺さる明りの在り処を探して首を回すと、まだ形を保っている梁の付け根になにかが反射して映っていた。一体なにの反射光なのか再びキョロキョロと出元を探すに、前を歩いていた審神者は振り返りもせずに言う。
「金で作った部品でもあるんじゃないか」
「金、ですか」
「秀吉は派手好きだと、一期が言っていた。あいつのけったいな巻き物もその影響だと」
確かに頭上の無事な欄間には鶴や松など、繊細な彫刻が掘られていた。
説明する審神者の手にある刀身も火の明りを煌々と映していて、今度はそちらに目がいく。
「その後徳川に引き取られて主は変わるんだがな。あれは豊臣秀吉を「前の主」と言う。奴の時間はここで止まってるんだな」
「……」
「徳川を主と認めたくないのか。それとも、」
審神者が振り返りを見る。
穴が開きそうなほど刺してくる針の視線が、顔を逸らすことを許さない。首の後ろを見えない手が掴んでいる。
隠れがちな前髪越しにこちらを覗き込む、なにもかも飲み込みそうながらんどうな目。
「燃えたら、刀も死ぬんだろうか。その身は残っていても、人間でいう、骨だけみたいなものなんだろうか」
「……あまり、喋らない方がいいです」
「……そうだな」
審神者は眉を下げ、薄く笑ってからに謝る。
「悪い。いい加減一人が長かったから、色々聞きたくなってしまった」
常時の彼女が纏うには不似合いな、柔らかな空気で、人好きのする顔で苦笑する。
「でも」
手にした刀の穂先がこちらに向く。
切っ先を突きつけて彼女は言った。
「答えを聞けずに終わりそうだ」
どんな刀かなんて聞いている訳がない。彼女をおびき寄せるためについた嘘なのだから。
飛びかかってきた刃は必要以上に距離を取って避けたはずなのに、どことなく切られた違和感があった。
今まで操り人形のように自分を吊っていた糸が、切り離された解放感。
獣の頭をした骨の竜は口に自身の刀を咥え、主を守るかのごとく彼女の前に浮かんでいる。
そうだ、そのちょうど真ん中に薄い膜の切れ目が見える。
ぺりぺりと膜がめくれ上がっていくにつれ、目の前の黒いスーツが懐かしいブレザーとスカートに変わっていく。
その姿を知っている。覚えている。
は最初から、彼女の正体を知っていた。
だってあれは、
「まだあるかもしれないって言ったのは君だろう」
幻術が切れても変わらないがらんどうな目で、中学の頃の自分が言った。
少女が力を込めて柄を掴み直すと、手の中の太刀は強靭な肉体を持った男に変わる。彼女の手は黒く変色していた。
「相性が悪いと体も精神も完全な「人」の形を保てず生まれてくるけど、立派に戦ってくれる。おまけに資材も霊力も時間もほとんどゼロ。結構便利だよ」
男が刀を振り落とす一瞬にシェルターを開き、どこに斬り掛かるか焦点を見もせずに逃げた。背後でバァン!!と大きな音がする。シェルターはもう取りに行けないだろう。片隅で後悔しながらも、できうる限り全速力で廊下を走る。
は丸腰だ。武器があったって扱える訳でもないけれど、あんな蘊蓄を聞いても恐くて試す気にならない。
だからとにかく離れた。今は完全に分が悪い。少女も自分と同じように、丸腰になったときを狙わなければ。
辺りは白々しい黄色と橙の炎に囲まれている。
頬から蝕む熱さも、鼻を刺す臭気も、喉に詰まる息苦しさも少女にはすべて慣れた感覚だった。
あれから逃げたは見つからない。高校生の自分がおそらくさして考えなしに出したシェルターは、確かに道を阻む障害として機能していて、あまりに壊れないものだから周りの壁や柱を壊した方が早かった。おかげで迂回に時間を取られ、たかだか人間の脚力で姿を見失ってしまった。
人探しにも飽きて、もうこの場を去ろうかとすら思えてくる。
もしかしたら、馬鹿みたく自分を待ち続けて勝手に死んでくれるかもしれないし。
一応いたるところに顕現させた刀剣達を置いてはいるが、この炎の中では彼らの本体が耐えられずそろそろ焼失してしまうだろう。
一人抜け出す算段を立て下の階へ足を向けた少女の脇目を遠く、白い影が横切る。
小さな犬か狸のような、まるで
「……こんのすけ?」
首を右へ伸ばしながら訝しむ。
こんのすけは替えが利く生物だ。だからの本丸に入った時も早々に彼女のこんのすけは処分して、こちらのこんのすけを見張りとしてつけていた。こうして誘き出されたということは、少女がつけたこんのすけは破壊され、既に側のこんのすけが戻っているということだろう。過酷な環境に対しての耐久性は付けられていても、それ自身に何ができる訳でもない、矮小な生物なのだ。下手な誘いに乗るより放っておいた方が賢明だ。だが、なにか嫌な予感がする。
疑心暗鬼かもしれないが追いかけるべきか、少女の意識はそれそのことだけに向いていた。
「────ッ!?」
気付いたときには少女の体は畳に強かに打ちつけられた。摩擦で熱を持った皮膚がひりつく。
横になった視界ですぐさま、見えるはずのない透明な壁が建てられていくのが“視えた”。
「……てて」
「結界、まだ持ってたのか」
「持ってないよ! 自作です!!」
上を見ると少女を強烈なタックルで引き倒したが、誇らしそうに鼻を鳴らした。
「さっき、こんのすけ見た?」
「こんのすけ?」
少女の問いには小さく首を傾げる。
明らかになにも知らない奴の反応だった。
「じゃあ見間違いってことでいいや」
「え? え?」
「気にしなくていいよ。どうせ出て行く気、ないんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
二人がいる箱の中にはその場で燃えている炎も閉じ込められていた。
シェルターは本来媒体となる器に時間をかけて少しずつ力を溜めていくものだ。頑丈な壁を作るほど大量の霊力を一度に放出して、その後力が元に戻る保証もなければ、容れ物もなしに作った結界は解除した途端完全に消失し、繰り返し使うことも適わない。
の気配を察知してか、少女が器を与えた歪な人形が辺りを取り囲む。ありったけの霊力で築いた壁は彼らが刀を振るってもビクともしない。だが、にはもう少女の言う「便利」な顕現をする力すら残っていない。
結界を破られたら最後、少女を捕らえる機会は二度と失い、目の前の彼らに殺されて終わりだ。
「面倒くさいなぁもう」
腕の中の少女はズルズルと床を這い、伸ばした掌を見えない壁にぺたりと当てる。黒い指先から外に向かい少しずつ、薄い罅が広がっていく。
「え、うそ!? なんで!?」
多少経験の差こそあれ、少女とは同じ人間だ。元々持ち得ている霊力に大きな差はないと思っていた。それがこうもあっさり破壊の予兆を見せられるとは。
「散々時代をいじくったおかげで君の方は弱体化したんじゃないか? 知ってる? 一期一振って顕現に三時間二十分かかるんだよ」
「!?!?」
鯰尾藤四郎は一時間半だ。
動揺している間にすんなり起き上がっていた少女は、など相手にもならないとでもいうように壊すことに集中している。
完全に背を向けて、こちらを一切見向きもしない。
「……なんで、殺さないの?」
「なんでって、丸腰のところを閉じ込めた本人がなに言ってるんだ」
「手でも人は殺せるよ」
「それで殺すのに時間を割いて、結界を壊しきれなかったら私だって共倒れだ。だったらこっちを優先する」
確かに少女の言う通り、外に出した霊力は持ち主が死んでも消えることはない。
箱の中から出て行かない限り、二人とも丸焼けか二酸化炭素中毒でどちらにしろ死ぬのだ。
「今君を殺さなくても、そんなの後でできる」
手で首を絞めるより、刀で斬った方が簡単だ。きっとそれは間違いない。
彼女にはを殺す機会がいくらでもあった。今までにだってたくさん。
だが、そもそも彼女は本当に。本当に、
髪布に手がいく。震えもしない指先が菱形の形をなぞる。
「無理だよ。そんなのじゃ殺せないよ」
本当に、悪者はばっかりだ。
「ごめん。私はあなたより、自分より、もっと大切なものがある」
後ろで燃え盛る炎に手を伸ばし、ブレザーの裾へと火をつける。
汗が滲み、痛みと熱で焼けているのを感じながら、その腕を少女の肩に回した。
「……っば、離せ!! はなせ!!」
少女の襟元にも橙は瞬く間に広がってゆく。初めて見る泣きそうな横顔は、やっと年相応の表情をしていたように思う。 やはり死ぬのは恐いのだろうか。
それでも、ここまで命が脅かされてもまだ、彼女も殺したくなかったのだろうか。
すべてにはわからないことばかりだけど。
「ごめんね」
手首へ点した火はいまや全身を包んでいる。
炎が直接身を舐めていく熱さは、最初に大阪城へ来たときとは比べものにならなかった。今でも少女にしがみついたままでいられることが不思議なくらいだ。もはや行動に思考や意識は伴わず、ただ脳がしっかり働いていた頃の意地だけでその命令を維持していた。
しかし、さすがにそろそろ限界なようだ。
おぶさる少女から体がずれ落ち、そのまま床とぶつかりそうになっていたところを無意識が引き止める。ぼんやりとした意識のまま体勢を整えようと体を動かし、そのときほんの少しだけ頭も動いた。
ずっと下を向いていた視線はわずかに上にいき、壁の向こう側の空中を見る。
色のない揺らめきと空ろな頭で、輪郭が曖昧になった視界の中でもその色は強烈だった。
「────……」
いつの間にか外の様子が変わっていた。
取り囲んでいるのはもはや不完全な人の形のものではなかった。
この炎の中で夜が見える。
「…………なんで」
ぼうぼうと辺りを照らす明りの中で、落とされた一滴の紺色がなによりもの目を焼き付ける。
「なんで」
「…………すか……た!!」
幻聴が聞こえる。いよいよ気がおかしくなった。結界の外の音など届く訳がないのに。
彼は泣いていた。
熱風が気管に入るのもいとわず、壁を叩いて叫んでいた。
「なにやってんですかあんた!!」
夜色の髪をした
橙色の炎の中でよく見える、彼の泣き顔を見てしまった
壁が壊れるのは一瞬だった。
腕の中の少女が罅が入り薄くなっていた膜を叩き割ると、その穴を薄い鉄板のように破いて広げた鯰尾が中に入り込んでを抱きかかえる。
残りは後ろにいた一期一振が切り裂き、完全に霧散してしまった。
「鯰尾!! そこで止まってたら主もろとも灰になるぞ!!」
一期一振が促しても、鯰尾はずっと動こうとしなかった。
一期は舌打ちすると肩を貸す形だった少女を背負い、弟の胴へ腕を回して引っ張り上げた。
持ち上げた右腕に人間二人分の重みがのしかかる。重心が大きく傾き、腕に抱えた二人の体は半ば引きずるようになってしまっている。頭で思っているよりもずっと足の歩みは進まない。
「兄さん」
視界が眩む。汗が滲む。腕や手がぬかるんで、少しでも衝撃が加われば抱えているものをすべて滑り落としてしまいそうだった。
「兄さん、」
朦朧とした意識の中で二度目の声は明瞭に届いた。
一期はそれまで前を向いていた視点を下におろす。声をかけてきたのは、爪先を引き摺りがちに運んでしまっていた弟だった。どうやら幻聴でも亡霊の声でもなかったらしい。
「兄さん、ごめん。自分で歩ける」
鯰尾は一期の腕から離れ、に肩を貸しながら隣をしっかりとした足取りで歩く。
「ありがとう」
「………」
告げられた言葉に一期一振は何も言えなかった。
ただ、柔和な皮の下で苦虫を噛み潰して前に向き直り、外を目指して歩いていく。
表は既になにもかも壊されていて、一面焼け野原だった。
一期一振は息を整えながら首を下げ、辺りの様子を窺う。肩から覗く少女の腕にまとわりつく火は消え、隣の鯰尾達も無事だ。一瞬安堵した後、段々と表情が強張っていく一期の頭に、軽い感触で小さな手が置かれる。
手はそのまま左右に動く。時折髪を梳くように。
ゆっくりと動く黒い手は、緩やかに一期の頭を撫でていた。
彼は一度だけ「寝てろ」と小さく漏らして、肩越しの少女の頭を押さえる。
「鯰尾」
呼びかけた少年は訝しげに一期一振を見る。
彼の前に一期は黒く包まれた鞘を差し出す。
「薬研はそちらで持っていけ」
一期一振の顔は固かった。
だが、その張りつめた口角と目がほんの少しばかり柔らかく歪む。
そのとき彼は確かに「兄」の顔をしていたのに。
「私は、君達の兄と名乗れるようなものではなくなってしまったから」
無機質な顔に戻した一期の足元から、ひょっこりと一匹の狐が現れる。少女側の新しいこんのすけだ。こんのすけが左の前足を三度叩いた後、小さな鳥居が出現した。一期一振と少女は鳥居をくぐって姿を消した。
「主」
「あるじ」
「おい!!」
「なにしてたんだあんた!!」
四度目に怒鳴った呼びかけで、ようやくは鯰尾の方を向いた。
機械に電源が入るように少しずつ、見つめる目の焦点が合ってくる。
だが正気に戻ったは俯いた。
「なんできたの」
「……はい?」
「なんで来たの」
ボソリと呟かれた声には抱えきれないほどの怒気を孕んでいた。
「火の中なら鯰尾くんは来れないと思ったのに。なんで来るの! 死ぬかもしれなかったのに!?」
「あるじ」
「鯰尾くんが来なければみんな元通りだったのに!! なにも失くさずに全部戻せたのに!」
「なに言ってんだあんた!!」
「なにしてくれて」
「死ぬつもりだったんですか!?」
「なんてこと、させちゃって」
「聞いてください!」
「ごめん」
「主」
「ごめんね、ごめん。ごめんなさい。酷いこと、させちゃ」
「主ってば!!」
肩を掴まれ無理矢理に止められたは、ゆるゆると首を振り片手で目を覆う。
「……鯰尾くんが来ると思わなかった」
小さく話す声はいくらか冷静さが戻っていたように思う。
「話してください。なにをしようとしてたんです」
「本当に、ごめんなさい」
「なんなのかちゃんと説明してください」
「……」
「……話すまで放しませんからね」
しばらく無言で、それでも鯰尾が放さないと観念したのか、やがて静かに、崩れるように嗚咽が響いた。
「……学校に、戻りたかった」
「がっこう?」
「皆のいる学校に帰りたかったんだ。さにわが、私があの子を殺せば、歴史は正しい形に戻るから」
「……」
「歴史修正主義者の正体は、過去の私達なんだ」
「なんだよ、それ」
歴史修正主義者を率いる首謀者は過去の審神者達だった。昔の自分がなにを望んだのかはわからない。
しかし、そのせいで時空が歪み、はクラスメイトをすべて失った。
少し未来の自分には謝られた。本来は彼女の仕事だった。だが、殺せなかった。返り討ちに遭い致命傷を負った。だから自分で自分を殺す手段として、また別の時代の自分を連れてきた。
「自分で戻せなくてごめん」「巻き込んでごめん」そう謝る彼女は血塗れだった。そうしてすぐに息絶えた。
過去の自分である歴史修正主義者を自分で殺せば、なにもかもなかったことになる。
昔の自分のやった所業も、今の自分の存在も。それですべて元通りだ。
「だから、殺そうとしてた」
買い出しから帰った日、政府からきていた手紙は戦績ではなく報告だった。こんのすけが他のものと掏り替えられている。いつも様子を見てきてくれてた彼女は敵だと。あれは自分が殺すべき相手だった。
既に人を一度殺したことのある人間に、自分が殺すべき人間だと知っている相手に、どうやって対抗するか。足りない頭なりに考えて、自分が先に死んだとしてもそれまでに逃げ切れないくらいに巻き込んでしまえばいい。理屈はわからないが相手と自分さえ死んでしまえば、今までのことは帳消しになり、歪んだ歴史はあるべき形に修復される。
だからのこんのすけが戻ってきたときに、箱型の空間ができる結界をひとつ用意してもらった。
それで、中ですべて焼いてしまえばいい。
髪紐を棒タイ代わりに使うのも、火の海へ手を入れる前にブレザーを脱いだのも、学校にいた頃を失くしたくなかったからだ。
そこに戻れるなら、それを取り戻せるなら一度くらい死んだって構わないと思っていた。
そうなる覚悟を、
「していたはずだったんだよ」
「なのにやだなぁ。鯰くんの姿見ちゃったら…」
気が抜けて、一瞬なにもかも忘れてしまった。
「ほんと、やだなぁ。こんなはずじゃなかったのになぁ……」
自分が死んだ姿だって見た。心に弱さを持っていれば、またああなることだってわかっていた。
それなのに。
来てくれて、嬉しかった。鯰尾が来たことを喜んでいた。
「ずっと黙っててごめんね」
騙してごめん。置いていこうとしてごめん。なにも言わなくて、ズレを直そうとぶつかることも避けて。
鯰尾が自分に一心に向き合ってくる一方で、は一度も鯰尾に真摯に向き合おうとしなかった。
きっと審神者達は刀剣達の中で一番最低な主になる。
「嫌です」
最初から置いていくつもりで手にするのだから。
馬鹿だ勝手だ最悪だ。それでも、どんな最低なことをしても、こちらにだって意地がある。
はなにも失くしたくなかった。
彼女は自分以外、なにも失くすつもりはなかった。
クラスメイトも、たった一人の刀剣も。
「一緒に帰ろう、」
「寒くない?」
日はどっぷりと暮れて今度こそ本当の夜だった。
鯰尾におぶられたは彼の様子を気にかける。少年は背中の主に上着を渡したため、いまやシャツ一枚の姿だった。
「大丈夫。主、体温高いですね」
「……」
「なんで離れるんですか。寒いんですけど」
「…………別に、体温高いわけでは……」
ブツブツと言い訳を並べながら、再び体をくっつける。
「あるじー、独り言ですかー?」
「うーん……」
この時代は本当に明りがない。横に向けた視界に入る景色を見てふと思う。にはただ目の前に暗闇が広がっているようにしか見えず、なにか物や道があるのかすらわからなかった。
手に当たる髪の毛をいじると、さらりと流れる。
「鯰くんは綺麗に夜に溶けるねぇ」
「なんですかそれ」
「んー? 全然見えないなぁって」
これが茶髪や一期のような水色だったら違っていたのかもしれない。
だが目の前の少年はおぶってもらっているからこそ感触でわかるものの、正直降りて離れてしまえば輪郭すら捉えられる気がしない。
「あ、でも項は見える」
垂れている髪をかきあげれば、ほんのりとした乳白色が暗闇の中で綺麗に浮かび上がっている。
「なんか幽霊みたい」
「大丈夫ですよ。ちゃんと触って、いるでしょう?」
「……そうだね」
じわりと、なんの前触れもなく目に涙が滲んだ。
突然壊れた涙腺に訳がわからず目をこする。
ゴシゴシとこすっても、浮かぶ水は流れるほどでないにしろ止まらない。
こすり過ぎて瞼に痛みが出だした頃生じた頃、ようやくは納得する。それまでそんな欲があるとは気付いていなかった。
なによりも実体が欲しかった。
クラスメイトが消えた光景を思い出す。何度も何度も、夢の中で伸ばした手に触れるものはなにもない。あのとき最後に強く手を掴んだ彼女だってもう死んだ。
触れた背から伝わる、トクトクと鳴る心脈に安堵する。だから何度だって確かめた。
彼はここにいる。大丈夫だ。
「布、ぼろぼろになっちゃったなぁ」
「いいじゃないですか、過去なんてどうだって!」
「うーん。鯰くんのなんでもかんでもそう言っちゃうのは、ちょっと……」
やさぐれてはないだろうか。
「そういったって、なくなっちゃったものはしょうがないじゃないですか。そんなこと言うなら燃やさないでください」
「はい、ごめんなさい」
「……また、髪が伸びたら、新しいの買いましょう」
「……」
ここで断るべきだった。もっと道具と使い手として適切な距離を取ってなければいけなかった。
また惜しくなるものを作らないで。
そう告げるべきだった。そう言えたらよかったのに。
「うん」
なにも失いたくない。友人の存在も、家族に甘えて、授業を退屈に思って、友人と遊ぶのが何より楽しかった、なんでもなかった生活も。
その中に確かに、この刀が具現化された少年の存在も染み込んで根を這っている。
は審神者として失敗している。
寂しいなんて言い訳にならない。
頬を擦り付けられる背中があることに安心した。
怒って引き止めてくれることが嬉しかった。
絶えず途切れないで呼びかけてきてくれる彼の声に落ち着いた。
この存在に慣れたくはなかった。
今日死ななかったことを、必ず後悔する日がくる。
救われれば救われるだけ、恐怖心は肥大するばかりだ。
どちらに進むか分からない。他に方法があるのかも分からない。
先延ばしだ。現実逃避だ。でも、
「大丈夫。生きてさえいれば、なんとかなりますって」
それでも
「だから今日のご飯のことでも考えましょう」
今だけは君と生きていたいと思ったのだ。