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 この世界には魔法があって。
 だから図書室の本は空を自由に飛び回り、手に取った本はディスプレイ広告のように、表紙がくるくると回っている。皿に乗ったホールケーキを小さな子供が大きな口で食べて、次に来た大人達もそれぞれ掬って食べさせあって、最後にのそのそと入ってきた犬が皿に顔を擦りつけて、残らずすべて平らげてしまう。クリーム塗れの犬が本の端に消えたあと、空の皿からケーキがむくむくと生えてきて、また子供が顔を出す。
 中の写真も表紙のように動いてくれればよかったのに。どうやらそこには費用をかけなかったようで、写真どころか文字だけしかない。随分古風でシンプルなレシピ本だった。工程を追うだけでも手間が凄そうで、見る見るうちにやる気が萎びた。選ぶ本を間違えたかもしれない。が肩を落として棚に戻そうとしたとき、耳元で「わっ!!」と大きな声がして、手から本が滑り落ちる。
 角がぶつかって傷む前、本が鳥のようにページを広げ、衝突を回避して飛び上がる。そのまま遥か彼方へ飛び立とうとしていたのに、前にいた悪童によって阻まれた。
「なになに? トレイ先輩にでも持ってくつもりだった?」
 けたけたと笑いながら、目の前に本をかざす少年はエース・トラッポラという。
 一応、の友人だ。
 せっかく数少ない友人に会って、親切に本まで拾ってもらったというのに、の気は晴れない。むしろ食事中にライオンに見つかったハイエナの気分だ。
「いやぁー、お前の辞書にもコミュニケーションってあったのなー。ちょっと感心したわ」
「そこまでは考えてないけど」
「でも、お菓子作って謝りに行くんでしょ?」
「相手の反応はどうでもいいことをコミュニケーションとは言わない」
「うわ面倒くさ」
 知り合いか知り合いでないかで言えば関わりすぎているが、エースはさして親切という訳でも、親しい人間であれば友好的という訳でもない。いや出会ってまだ半月も経ってないので、親しくないと言われればそれまでだが。
「……」
 もう半月だ。月日が経つのはあっという間だ。
 魔法なんて、空想上にだけ存在するものが実在する世界に来てから、訳の分からない事件に巻き込まれているうちに半月が経った。
 芝生にこびりついた細いクリーム。踏みつけられて粉々になったビスケット。
 は差し出された本に背を向けて、別の本を漁り出す。
「……君らは大変だと思うけど」
 エースの左の目元には、大きなハートのメイクが施されている。彼だけではない。彼が所属しているハーツラビュル寮では、寮長以外、皆、目元や頬に何かしらのトランプの柄を描いている。
「私は今後関わる必要もないし、あの寮の大半の人間は今でも嫌いだし、ルールと体制も……いくら考え直してもクソとしか思えないし」
 火曜日にハンバーグを食べてはいけないとか、食後の紅茶は必ず角砂糖を二つ入れたレモンティーだとか。聞いたことがあるようなないような、おとぎ話のようなおかしなルールが、例え一つの寮という小さな世界だとしても、この世界には確かに実在していて。
「本人がいくら強く思おうが、そう簡単には変わらないでしょ」
 彼は、その世界の住人だ。
 この世界には魔法があって、ナイトレイブンカレッジ──通称NRCは特に魔法に注力している学校で、だから以外の誰もが魔法を使える。生徒も教師も壁の幽霊も小さなモンスターも、皆。
 NRCは全寮制で、その内の一つ、ハーツラビュル寮では「なんでもない日のパーティー」という催しがある。寮生の誰の誕生日でもない日に、誰の誕生日でもないことを祝う、おかしなパーティー。
 パーティーの前日、エースは冷蔵庫にあったケーキを夜中寮長の断りなく摘んだことを咎められ、寮を追い出された。だから寮に入れてもらうため、填められた首輪を外してもらうため、もう一度、新しいケーキを作って差し出した。
 糸のような滑らかなクリーム、照りのある渋皮煮、サクサクのビスケット。洋酒を少し含ませた、甘い香りがほのかに漂うマロンタルト。
 結論から言うと、タルトは頭から捨てられた。ハートの女王の法律、第五六二条「『なんでもない日』のティーパーティーにマロンタルトを持ち込むべからず」に違反していたからだ。
 マロンタルトを勧めてくれたのは副寮長のトレイという青年だった。学園の裏の森で栗が採れるから、作り立てが一番おいしいから、そう後輩達のやる気を引き出して、最後まで達の面倒をよく見ていた。
 だけど、は性根が捻くれているので。
「マロンタルトだって!? 信じられない!」
 寮長のリドルがそう叫んだとき、嵌められたと思った。
「寮長、申し訳ありません。マロンタルトを作ろうと言ったのは俺です」
 エースという少年は生意気で、自分の非を認めず、確かにろくに反省もしてやいなかったけど。
「作ったことが重要なんじゃない。今日! 今ここに! 持ち込んだことだけ・・が問題なんだ!!」
 だからといって、こんな形で無碍にされなくったっていいだろう。
「そんなおかしなルールに従ってるなんて馬鹿みたい」
 喜色を込めて割って入ってきた声に、リドルがこめかみを引き攣らせて、声のした方を向く。この中で唯一寮服でない、それまでずっと何も考えていなさそうな顔をしていた相手が、リドルを見据えてこの上なく朗らかに笑っている。
「馬鹿……だって?」
「ちょ……、リドルくん、こいつら入学したてほやほやの新入生だから……」
「では先輩、先輩はどうしてそのルールがあると思うんです? ルールがあるのには秩序を保つためだ。なら、できたからにはそれなりの理由がある。何故、この日、この時、マロンタルトだけが駄目なのか、馬鹿な後輩に教えてくださいよ」
 この学園で、リドルだけが使える魔法──ユニーク魔法は、断頭前に固定する板のように、赤と黒、左右半分ずつに分かれたハートの板に首を挟まれ、その先に南京錠がついている。その鍵はリドルでしか解けなくて、首輪をつけられた相手は、その間魔法が使えない。
 ここは魔法を学ぶための学校で、生徒も教師も皆魔法が使えて、そんな中で魔法を使えなくなることは、インターハイの選手が突然運動能力を失うようなものだ。誰もが一度くらい、この場にいる意味を考えてしまってもおかしくはない。
 だから皆、リドルの言うことに逆らえない。
「おかしなことを言うね。今、自分で言ったじゃないか。ルールは秩序を保つためにある。そしてここでの秩序とはハートの女王自身だ」
「じゃあそのルールが現実的に適応するに相応しいかは精査しないと?」
「ハートの女王が彼女のために作った彼女のルールだ。他に何がいると言うんだい?」
「呆れた。ここでの頭がいいってのは単に物覚えがいい人間のことを言うんです? そこに入ってるのは何のための脳みそですか?」
 コツコツと、こめかみを叩いて挑発する。子供の頃に瘡蓋で塞がれていた悪意が、膿のように吹き出して止まらない。
「ああ、それとも」
 この世界には魔法があるけれど。魔法のない世界から来たにはそんなこと関係なくて。彼らが何にそこまで怯えているのかも関心がなくて。
 だから、リドルにも、臆することなく暴言が吐ける。
「そんな可愛らしい小さな頭じゃ、覚えるだけでいっぱいいっぱいで、考えるのは難しいのかな?」
 誰もが顔を青褪めさせてを睨んだが、もの言えぬ兵などただの壁だ。庭の塗られた薔薇と同じ。ペンキで分厚く凹凸をならされた滑らかな背景。そんなものには興味がない。前にいるリドルだけが、顔をその髪に似た赤色に染めあげていく。
「ボクが寮長になって一年、ハーツラビュルからは一人の留年者・退学者も出していない。これは全寮でもハーツラビュルだけだ」
 海の生き物が茹で上がっていくように。古くなった卵が底から浮かんでくるように。ふつふつと、首から頭にかけて。
「だからボクが一番優秀で、一番強くて、一番正しい。部外者が口を出すな!!」
 いかにも言葉に詰まった人間が取りそうな常套手段だった。しかし、リドルの言うことももっともだ。そもそもは手伝いをするだけして、パーティーが始まる前にずらかるつもりでいた。自分の寮で静かに過ごせるなら、別にご褒美なんてなくてよかった。どこぞのクラスメイトに肘を掴まれたせいで、それは叶わなかったけど。
 寮長直々に退去命令も出たことだし、今度こそ本当に帰ろうと踵を返しかけたところで、そいつの声がまた阻む。
「いーや、言うね」
 今度はちゃんと、関係者だ。
「馬鹿みたいなルールに何も言わずに従い続けるなんてただの馬鹿だ」
「僕もエースに賛成です。ルールは守らなければいけないものだとは思いますが……、さすがに突飛過ぎる」
「他の奴らだって、魔法封じられるのが怖くて言い出せないけどこんなのおかしいと思ってるんだろ!?」
「へぇ、そうなのかい?」
 リドルが近くにいた寮生に問いかける。射止められたられてしまった彼らは早口で吃音混じりに返答した。
「と、とんでもありません!」
「すべては寮長のご決断次第です!!」
「……ダッセー」
 寮生の「模範解答」にエースは小さく憎まれ口を叩くが、は特に落胆もない。急に言われたってすぐには変えられないだろうし、権威と暴力は恐ろしいだろうし、ああやって脳を殺して条件反射で答えている方が楽だろう。
「これで分かったかい、ここではボクが一番正しくてボクがルールだ。従えないのなら、全員まとめて首を刎ねる」
 そんなもんだろうな、と思う。
「みんな、ほら。「はい、寮長」って言って」
 何度も間を取り持っていた三年生、ケイトが最後の慈悲を見せて促す。
 こうべを垂らして、つつがなく元に戻れる手助けを。脳のない兵隊に戻る手助けを。
「上が上なら下も下だな。不満はある癖に、標的にされるのは嫌だから自分からは何も言いたくないって?」
ちゃん」
 この世界には魔法があって。
 だけどは使えなくて。
 だから、リドルに魔法をかけられた首を刎ねられたところで、
「いいんじゃない? そうやってずっと長いものに巻かれて、一生靴でも舐めて生きてれば? 寮長・寮生共々、さっさと倒れて自滅しろ」
 せいぜい、肩凝りが酷くなるのを覚悟するだけだ。
「オフ・ウィズ・ユアヘッドーーーー!!」
 そうして外まで飛ばされたのが五日前で、その後すべてが丸く収まったのが三日前の話だ。
 あの時、リドルは小さな子供のように泣きじゃくって、それこそエースよりよっぽど真剣に反省していたけれど。が詫びの品を見繕っているのは、あくまで一区切りをつけたいと思っているからにすぎない。あらぬ疑いで睨みつけたのは申し訳なかったし、さすがに少し言いすぎた。リドルが原因ではない怒りまで乗せて罵ってしまったし。
 魔力のないは、この学園で闇の鏡が振り分ける七つの寮のどこにも所属しておらず、昔寮として使っていたという古びた廃墟に一人と一匹、三体のゴーストと住んでいる。同級生のエースやもう一人の友人デュースはともかく、他の人間は積極的に近寄りでもしない限り、今後関わることもない。
「あのさぁ、」
 背中で大きな溜息がして。
「お前のそういうところ、あの人達皆気付いてるだろ」
 声の主を覗き見ると、彼が「面倒」と言った時と同じ、いやもう少し醒めた顔でを見ている。そう思うのであれば、素直に放っておいてくれればいいのに。
「気付いてないの、デュースとグリムくらいだぞ」
 なのにエースの口はとても滑らかに吊り上がる。
「馬鹿だからって安心して好かれてるのもかわいそー」
 そう話すエースは、相手をいたぶることに本当に嬉々とした表情で、何故この少年が未だ友人然とした態度で飽きもせず絡んでくるのか、には理解できない。最初の時だって、と相棒を馬鹿にするだけして立ち去っていくだけのつもりだったろうに。
「おーい、無視すんなー」
「あ、お菓子か」
「え、作んねぇの?」
 もぞもぞと動きたがっていた本を適当に飛ばして、手元も何も持たないまま歩きだすを見て、エースは目を瞬かせる。
「もう面倒だから購買で買おうかと」
「えー」
「えー、て。いいじゃん。安心安全、失敗のない安定した味。成功確定じゃないか」
「女王様のルールの前じゃ失敗もありそうじゃね?」
「じゃあいっぱい買う」
「ヤダ~、つまんな~い。くんが苦労するとこ見た~い」
「そう言われて誰が応えると思うんだよ」
「でも、オレこないだ自分で作ったろ?」
「クローバー先輩に手伝ってもらってな」
「んで、寮長も自分で作ったろ」
「人には一人でやらせてな」
「そこで思ったんだけどさ。うちの寮って、自分でやったことの落とし前は自分でつけろって感じじゃんか。そっちの方がウケ良さそう」
「別にウケてもなぁ」
 出入り口に近付いて久々に後ろを向いたに、エースが「じゃーん」とソフトカバー本を披露する。が棚に戻そうとして落とした本だ。表紙の中では相変わらず幸せそうな光景が、くるくると回って繰り返されている。が一向に取り返しにこないので、しばらくしてからエース自身が戻していたはずだが。
「さっき手空いてなかった?」
「さっきもっかい取っただけ」
 別に手品じゃないよ。少年はくすくすと笑う。
「それすごい分かりにくかった」
「はぁ~? なんで、あ、お前ちゃんと読んでるんだろ。あとで教えてやるから待ってろ」
 お礼はチェリーパイでいいからさ。そう言ってウインクしたエースは、受付でサラサラと貸出カードを書いていく。
 図書室を出て本を開き、エースが「チェリーパイ」と指定すると、風でも吹いているかのようにページがパラパラとめくられて、アップルパイとさくらんぼのコンポーネントのキャプチャがそれぞれ空中に表示された。
「現代人がまともに文字なんか読む訳ないじゃん」
「……なるほど」
 気安く同意はしかねるが、需要に沿った技術の発展だった。
 
「改めて。クローバー先輩、ローズハート先輩、申し訳ございませんでした」
「随分大きなサイズだね」
「数打ちゃ何かは当たると思って」
 平たい四角の箱を二つ重ねた簡素な見た目のそれから、少し想像を超える重みがリドルの腕にかかる。玄関で荷物を受け取ったリドルは、廊下へ足を向けつつ達に声をかける。
「紅茶を淹れたから、キミ達も一緒に飲むかい?」
「お、準備がいいじゃねぇか」
「え、いいです……」
「何か用事でも?」
「いえ、そんなことをされる理由がよく分からなくて」
 馬鹿正直に伝えたに、その場にいたトレイは笑みを強張らせ、後ろのエースは顔を歪める。当のリドルは別段気を悪くした風でもなく素直に理由を説明した。
「あらかじめ持っていくと聞いてたんだ。用意しておくのは当然だろう」
 あっけらかんと伝えるリドルには面食らう。確かに昼休みに女王の法律に引っかかるものがないか聞きに行ったが。一瞬、中で私刑でもされるのかと勘繰ったが、そんな様子も見られない。
「ありがたくいただいていくんだゾ〜」
「あ、こらグリム」
 狸ほどの体長の相棒が足元を通り過ぎ、うきうきとリドルの背に着いていく。保護者気取りで張り切っていたのをそのまま連れてきたのが不味かった。
「いいじゃんお茶くらい、飲んでいけば」
「グリム追いかけないとな」
 エースが背中を押し、トレイがもっともらしい理由をつけて退路を塞ぐ。は内心で大きく肩を落とした。

「わ、すごーい。撮っていい?」
「どうぞ」
「これ何があるんだ?」
「紙に中身書いてるからそれ見て」
ちゃん、もしかして元気ない?」
「ちょっと廊下に酔いまして……」
「あー、最初のうちは慣れないよね〜。グリちゃんもさっきまでダウンしてたよ」
「元気だな」
 左隣には、開封と同時に箱に頭を突っ込もうとしていたグリムが、首根っこを掴まれたままリドルの膝の上に乗せられ、いつもよりはるかに小さい口で一つのパイを行儀よく食べている。あのエッシャーのような廊下にしっかり酔った後でこれなら忙しない限りだ。
「しかしまぁ、よくもこれだけ作ったな」
「こいふ、ゆうううふはんなんふよ」
「エース、口の中に入れたまま喋らない。グリムと同じようにされたいのかい?」
「まあまあリドルくん、皆で食べた方がおいしいじゃん♪」
「デュースも好きなの取っていいからな」
「ありがとうございます。じゃあ先輩達のあとで、」
 はトレイに振る舞われた紅茶で口を湿らせながら周囲を眺める。以前ならとっくに爆発してそうな場面でも、リドルが小言に止めたりエースも意図的に無視して蒸し返さないようにしたりと、ぎこちないながらも穏やかで、一週間前の殺伐とした空気が嘘のようだ。
 個別に紙に包んで軽食っぽくしたとはいえ、リドルがローテーブルや手掴みでの食事を許容しているのも意外だった。
「リドル君だってサンドイッチは手で食べるよ〜」
 隣に座っていたケイトが周囲に紛れる程度の声量で話す。は一瞬ケイトを凝視するが、彼ならそこまで驚くことでもないと瞼を戻す。
「ダイヤモンド先輩もすみませんでした」
「えっ、なにが?」
「せっかく庇っていただいていたのに無碍にしてしまって」
「いいよ〜、けーくん先輩だし」
「面倒見がいいんですね」
「そんな、あ、じゃあ今度ちょっと付き合ってくれる?」
「はぁ、」
「あ、じゃあ俺からも一ついいか?」
 二人だけで話が進んでいたなか、突如として参加してきた声に、もケイトも顔を上げる。ケイトの右隣、一人掛けのソファに腰掛けていたトレイが朗らかな笑顔で二人を見る。
「……どうぞ?」
「お前のその物量に訴える姿勢は嫌いじゃないが」
 一箱十二個のパイが入っていた箱を見せつけながら応えるにトレイが苦笑を浮かべる。
「ここに来た目的は?」
「クローバー先輩がわざとマロンタルト勧めたのかと思って睨んだことと、ローズハート先輩に暴言吐きまくったことへの謝罪です」
「謝罪の定義は?」
「罪や過ちを詫びること。ちなみにこの場合の詫びるというのは、困惑した様子をして過失などの許しを求める(精選版日本国語大辞典より)に当たります」
「よくできました。ところで、俺とリドルはお前に許したって言ったか?」
「言ってないですね」
 傾けたパイの箱を天板に下ろしたに、ケイトと前の友人達が同情的な視線を送る。グリムは半眼になっているし、リドルですら多少困惑した顔でトレイを見ているというのに、眼鏡をかけた青年はいつも通りの人好きのしそうな笑顔だ。
 は浅く掛けていた腰を深く座り直して、ふんぞり返りながら紅茶を煽る。
「何が望みですか」
「そんないかにもな悪役にならなくても」
「こういうのがお好きかと」
「悪かった悪かった。要件なんだが、リドルの言うことを一つ聞くこと」
 骨の髄まで啜られるかと思ったが、思っていたほどでもなかった。笑っていた瞼が開いて、穏やかな黄土色と目が合う。
「学園生活を送っていく中で、何かと伝手があるのは便利だろ」
「そうかもしれませんね」
 随分と世話焼きの人間が多いところに来た、とは思った。どちらかというと、元の世界へ戻る方法を探している学園長に、彼らの要素が爪の垢ほどでもあればよかったのだが。善人とまでは言わずとも良人が多いのだろうが、学園生活に馴染むよう、この場に定着させるかのような気遣いは、少し、息が詰まる。
「お前もある程度は酷いことを言ったとは思ってるだろうが、リドルは勉強も魔法も実力をつけてその上に立っている。統率の取り方はそりゃ……やり過ぎではあったけど、言わなかった俺にも責任はあるしな」
 一度咳払いをしてから「まあそれはこれから少しずつ変えていくとして」トレイが続ける。
「それでも俺は規律を重んじるハーツラビュルの寮長に、リドル以上の人はいないと思ってるよ。色んな考えの人がいるのは知ってるが」
「トレイくんトレイくん、リドルくんめっちゃ照れてる」
「付き合っていったら悪い奴じゃないし、さっきも言った通り、勉強も魔術も申し分ない。困った時にきっとお前の助けになる、頼りになる先輩だよ」
 だからあともう一つリドルの言うことを聞くこと。そう条件を提示したトレイは、聞き分けのない子供を嗜めるような顔で念を押す。
「これは嘘じゃない」
「……疑ってないですよ」
「それを言うならトレイの方だ」
 不均衡を嫌ったリドルが口を開く。
「キミが彼の人となりをよく知らないと言うなら今はそれで飲み込むが、そこまで人を疑ってかかるものでもないだろう。せっかくこんなに労をかけても、その姿勢じゃ謝意が伝わるかも疑わしい」
「いえ、それは別にいいです。許すかどうかは相手の意思によってのみ判断されるべきなので。こっちがどれだけ頑張ったかなんてただの自己満足ですよ」
ちゃん」
「お前本当に馬鹿だろ」
「なんとでも言え」
「分かるけど、今出すのはやめようね。リドルくん困ってるから」
 ケイトの言った通り、リドルが途方に暮れた目で固まっている。ついでに斜め向かいのデュースも固まっていた。なるほど、この二人は努力に対する価値観が自分と違うのだな、と頭の片隅で思いつつ、保護者のように後ろで微笑ましく見ている視線が鬱陶しい。ただ、困らせたかったのは本意ではない。
「ご、ごめんなさい」
「うん……」
 氷が溶けたかのように頷くリドルに、の肩の力も抜ける。気が緩んだところで、スマホのカメラがこちらを向く。
「ぶなぁ!!」
「お行儀が悪い!!」
「めっちゃ早かったね」
「グリムごめん」
「オレ様のきぃまかれえぇぇええええ!!」
 ケイトが向けたスマホに対して、リドルの膝から取り上げたグリムで顔を隠す。グリムの持っていたパイが前足から抜け、向かいのエースを飛び越えて奥の床に落下した。は席を立って落ちたパイを確認する。中身が無事ならグリム相手だし渡してしまおうかとも思ったが、既に齧りついた後だったため、さすがに挽肉と黄身が中からまろび出ていた。
「前から思ってたけど、ちゃん写真苦手だね?」
「分かってて何故わざわざ」
「だってちゃん、さっきオレにもごめんって言ってたじゃん」
「言いましたね」
「それってオレも言うこと聞いてもらっていいってことでしょ」
「付き合ってほしいことってこれですか」
「それはそれ、これはこれ〜」
「マジか」
 汚れた床を片付けながら小さく唸る背中が面白い。
 初めてのなんでもない日のパーティーで、寮服を着た後輩達とめかしこまれたグリムが撮影される傍ら、画角に入らないよう取る距離が少しばかり広いとは感じていたが、まさかここまでだったとは。
 魔法で自ら近寄ってきた掃除道具達に驚いて固まる姿にまた笑う。箒に断りを入れ、ティッシュに包んだパイを乗せたちりとりには会釈し、手をかざす前に床を拭きだした雑巾に慌てる様も新鮮だ。
「せっかくカメラ持ってるのに」
 ケイトはソファに置かれていたインスタントカメラを拾う。年代物の四角いカメラは、確か箒らと同じように、それ自体に魔法がかかっていて、現像された写真が絵画の幽霊のように動き出す代物だったはずだ。
「そいつ、そこの毛玉しか撮ってないッスよ」
「他に何撮るんです?」
「えぇ……」
「それ撮ったところで動くので、あんまり意味ないですけど」
 ほとんど掃除道具がやった片付けを終え、立ち上がりざまのをソファに座っている後輩達と一緒に撮った。排出された写真の中で、が遅れてソファに隠れている。
「肖像権……」
「ごめんね、今日は「お願い」だから」
「ダイヤモンド先輩は、個人の意志を尊重してくれるタイプかと思ってましたよ」
「ありがと☆ でもせっかくなら、ちょっとずつ思い出作ろ。はい、仲直りの印にリドルくんの横に並んで〜」
 言いたいことはあった気はするが、負い目で蓋をされて上手く言葉にならなかった。もう一度グリムで顔を隠すことは了承を得て、座っているリドルの横でグリムを抱えて立つ、誰か、そして何なのか、よく分からない写真が撮れた。
「じゃあ次はボクがいいかな?」
「どうぞ……」
「ネクタイ」
「ネクタイ、」
 席に戻ったは、言葉と共に指された首元に視線を下ろす。第二ボタンまで開けてかなり緩やかに着崩された制服。そもそもブレザーは羽織っておらず、シャツの上に着たダボついたセーターは、グリムの爪や寮のささくれで所々よれており、着始めてわずか半月で既になかなかのくたびれ具合だ。床の掃除などもそのまま制服で行うため、膝頭は擦れて白くなり始めている。袖口と裾からはみ出た手足が貧相さをより強調していて、あの寮の住人と言われれば誰もが納得しそうな、家主に相応しい格好だった。
「キミの格好は着崩しが過ぎる。もう少し身なりを整えるべきだ」
 自らのサイズに合った制服をきちんと着こなしているリドルとは対照的だ。厳格な彼から見れば口の一つでも挟みたくなるだろう。
「入学早々したばかりでなくした訳じゃないだろう?」
「はい、部屋にはありますけど……えっと」
「なんだい? 言いたいことがあるならはっきりお言いよ」
 今までより随分と鈍い反応に、違和感を覚えながらリドルが促したところ、は一瞬逡巡したあと訥々と口に出す。
「ネクタイって……、どうやって結ぶんですか?」
 その場にいた全員が固まり、やがて一年生は大口を開けて笑い、三年生は和やかに目を細めてを見た。呆気に取られたリドルの顔が一番マシだ。
「んなもんオレ様みたいにチョチョイのチョイって結べばいいじゃねぇか」
「やだよ可愛すぎるもん」
「だったらオレ様もカッコいい方がいい!」
「後ろ向きで格好いい結び方ってあるのかな?」
「とにかく理由は分かった。それなら僕が結び方を教えてあげるよ」
「ローズハート先輩、普通の結び方もできるんですか?」
「キミは今日、失礼な態度を詫びに来たのではないのかな」
「すみません」
 リドルの解いたネクタイが自分の首に回って、の身体がわずかに強張る。
「いいかい、先の太い方を長めに取って、二周……どうした?」
 首元でリドルの細い手指によって小さな輪が作られていく。距離が近い。ないとは思うが、晒した肌に手袋が当たりやしないかひやひやする。
「体が引いているよ、ちゃんと立ちなさい」
「いえ……、綺麗な顔が近くにあるのが落ち着かなくて」
「……それはここが男子校だと承知の上での発言かな?」
「さすがに、それは、はい」
 ちょうどこの前、聞いたので。
「男子校に女子がいる訳ねーじゃん」
 食堂でエースがそう話すのを聞くまで、実のところはNRCを男女比の大きい共学だと思っていた。ズボンの生徒しか見かけないのもそちらを好む生徒が多いだけだと。男子校と聞いて、髪の長さや言葉遣いで性別特有のからかいが発生しないのはいいところだと思ったが、いやどの道からかいは発生するし、むしろ治安は悪い方だが。エースの言葉を無言で聞き流していたはその実、脇に大量の汗をかいていた。自身がなだらかな体格であったことを心から安堵する。昼食を流し込みながら沈黙を誓ったのがちょうど先週のことだ。
 頬を引き攣らせているリドルが言わんとしていることは理解できるが、異性との慣れない距離に緊張しているのも事実だし、かといって自分の性別を素直に打ち明ける訳にもいかない。人慣れしていれば性別関係なく平気だったのだろうか。性別を否定した訳ではないと、一度、美「少年」と言い直すことも考えたが、軟派のようで気が引ける。何故こんな体勢で教わることになってしまったのだろう。極力斜め上に目を逸らして、耳が拾った言葉だけで無理矢理覚えた。
「よし、なんとか様になったね。明日からちゃんと着けてくること」
「はい……」
「もう一回やるかい?」
「いいです大丈夫です」
「免疫もついただろう?」
「……だといいんですけど」
「それで、トレイは決まったのかい?」
 リドルに声をかけられて、のんびりパイを食べていたトレイが顔をあげる。
「ああ、決まったというか聞きたいことがあったんだった」
 トレイの言葉には首を傾げる。三年生が来て間もない後輩に聞くようなことがあっただろうか。てっきり買い出しの使いっ走りとばかり思っていたが。
「ファーストネームはなんて言うんだ?」
「「「「はぁ!?」」」」
 談話室に二人と一匹以外の声が重なる。視線がトレイに集中したのをいいことには紅茶を飲み直し、グリムは六つ目のパイに手をつける。四人の視線を一斉に受けたトレイは、特に臆することもなく応える。
「ほら、学園長も「」って呼んでるだろ? だからファミリーネームかな、って」
 身内でもなさそうだし、流石に一人だけ贔屓もしないだろ? トレイの解説に四人が唖然とする。
「トレイくんそういうのは早く言おうよ!? オレ今かつてないくらいちゃんとの間に壁を感じてるよ!?」
「まだ出会って十日も経ってないですよ」
「悪い、あの時緊急事態だったしな」
「お前今までそれ黙ってたの!? マジで!?」
「僕達友達じゃなかったのか!?」
「あんまり下の名前好きじゃなくて」
「まあ、今から分かるんだからいいじゃないか」
 は席を立ち、後ろに回ってトレイのもとまで行き、背を屈めて彼にだけ聞こえるように囁く。
「え、おしまい?」
「だってこれ、クローバー先輩だけの依頼だろ」
「クローバー先輩!!」
「確かに理に適ってるな」
 三名ほど不満を示す者がいるがは黙殺する。本当に自分の名前が嫌いなのだ。仕事は果たした。嬉々として遊んできそうな面子が何名かいる前で、みすみす餌をやる必要もない。
「どういう意味なんだ?」
 はもう一度背を丸めてトレイに耳打ちする。大した意味はない。名前に持たれるイメージに対して自分がそぐわないと思うだけで。いわゆる名前負けだ。少なくとも彼女はそう思っている。こちらの世界でも「男子に愛らしいものの名前は恥とする」概念が通じるのであれば、男と思わせる後押しにもなるだろう。
「……あぁ、」
「え、どういう意味?」
「なに? 今の?」
「それが嫌なのか?」
「二人だけで話さないで!!」
「まぁ、それもありますけど、なんか「誰からも愛されるように」ってつけられたみたいで」
「よくある親の望みじゃないか」
「人の好みは! 千差万別!! 名前ごときで万人が万人に好かれる訳ねーだろバーカ!!」
「え、いきなり暴れだしたんだけど……」
「こわ……」
、パイ食うか」
「いただきます」
「っていうかグリム、お前分け前より多く食ってね?」
「へへん、ぺらぺら呑気に喋ってる奴がわりぃんだゾ」
 がデュースの隣へ行き、グリムとエースが諍い合う。リドルは一睨みしてからトレイ達の方へ移動し、ケイトは笑って写真を撮り続けている。
「もういいかい?」
「せっかくここまでもったんだし、あとちょっとだけ様子見ないか?」
「皆仲良いねぇ」
「まぁ、なんとなく、彼がああいう文句の付け方だったのか分かる気がするよ」
「それで、ちゃんなんて言うの?」
「あぁ、さっきスマホに送った」
「さっすがトレイくん、仕事がはやーい!」
 すかさずSNSのDMを開くケイトの横で、リドルがわずかに目を見開く。
「トレイ、いいのかい?」
「別に口止めされてないしな。一番聞かせたくなかったのはあの二人だろ」
「一番知りたがってるのも、あの二人だろうけどねぇ」
「まあ、心配しなくても、そのうち時期が来たら話すだろ」