我が家には他人がいる。
他人の名前は。
職場の寮が家事で全焼し、一時的にうちで預かることになった俺たちの従妹だ。
他人は怒っていた。
そりゃあもう────カンカンに。
草木も寝静まった丑三つ時。明かりを点けていない居間は暗く、玄関から入る縞模様の月明かりがわずかに足元に届くばかり。その明かりも大きな影が遮るせいで光が途絶えてしまった。他人は光の行き先を阻んだまま動かない。開けられたままの隙間から入り込む空気が、指先からじんわりと冷やしていく。
空になったチューハイを傾けながら俺は他人に問いかける。
「なー、。ごめんってー」
「……」
「おーい」
「……名前書いてたのに飲むってなんなの?」
「いやあ、コンビニで見たことあるなーって思ったら気になって」
「日本語読めないの?」
馬鹿なの? とこぼす溜息がいちいち神経を逆撫でしてくる。こめかみと口角が引き攣りそうだった。
は口をへの字に戻して黙り込んだ。廊下に突っ立ったままのと掌の空き缶に挟まれた俺は逃げ場がない。やばい、これは長くなるやつだ。
「ー」
「……」
「……」
いやはや、食いもんの恨みは恐ろしい。こちとらすぐ布団に戻るつもりだったものだからパジャマ一着で肌寒い。隙間から入ってきた外の空気が指先から上へ上へと覆ってくる。さっきからジワジワと染み込む寒気が今や全身に回ってきていた。あ……、ってかなんか、トイレ行きたくなってきたかも……。
「ねー、。やーい」
「……」
「さーん」
「……」
「な、なんか言ってー? 返事すらしてもらえないなんてお兄ちゃん寂しいよー?」
「……」
「……」
あーーーー!! もーーーーーー!!
んなずっと見てたって飲んじまったもんは戻らないんだし、そろそろ許してくんねーかなぁ!? それともなに? 俺が今ここで吐いて戻したらお前それ飲むのかよあぁ!?
「大体味だってジュースみたいであんま旨くなかったしさぁー、なんで今日に限って会うんだよー。これ絶対俺怒られ損だよー。今日はとんだ厄日だよー」
「声に出てるぞクソ松」
「そもそもなんで自分ちの冷蔵庫漁って文句言われなきゃなんねぇわけー? お前ここどこだと思ってんの? 松野家よ? 悠々自適なお一人様のスペースじゃないの。お前の実家でもないの。こちとら毎日戦争してんの。そんなに飲みたきゃ呑気に冷やしてないでさっさと飲んどけバーカ」
たかだか名前書いたくらいで食糧守れると思ってんじゃねーーバーーーーーーカ!!
「もうやだよー。お布団が恋しいよー」
「……気になってたんなら自分の金で買えよ」
「気になってたけど自分で買ってまでってほどじゃなかったのー。誰かの金で飲んでみたかったのー」
「……」
「というか自分の金なんて使いたくなーい。常に誰かの金で養われていたーい」
「うわ……」
よしよし、引いてる引いてる。
目の前のクズと一緒にいたくない空気をひしひしと感じる。だが、糞ニート発言にドン引きしたことで怒る気も削がれている!! こうなりゃ手段は選ばねぇ! 部屋に戻れるならなんでもいい!!
「んで、いつまでやんのこれ? もう二時過ぎてるんだけど」
多少心臓が痛むのなんて無視だ無視!
「おーい、聞いてる?」
「……お前が話にならないことはよくわかった」
「よっしゃ! んじゃおやすみ」
「土下座」
「…………は?」
「土下座して謝って。あぐらかいて机に顎乗せたまま喋る姿勢が謝罪にカウントされると思ってんの?」
「はぁーー?」
「なに?」
「お前何様?」
「様が付くほど偉いとは思ってないけど、人の物盗み食いする奴よりはマシなつもりだよ」
「うっわ、その姿勢が既に偉そーなんだけど」
「クソ松よりは上って言ってるじゃん。話聞いてる?」
そう言って首を傾げる影は本当になんの疑問も持っていない仕草だった。
事実だけど。確かに俺たちはニートで、クズで、さっきもこの場を切り上げるためにそういった発言を散々連発してきたけど。
「さっさとしたら? 時間の無駄なんでしょ?」
「ー」
「……なに」
「さっきからクソ松クソ松言ってるけどお前、俺が誰かわかってる?」
「……」
「わかんないかー、そっかそっかー。誰か見分けもつかないのに怒ってたのかー」
反論もなくは黙りこくったままだ。
俺は自然と頬が吊り上がる。ダメだなー、あんまよくないんだけど楽しくて仕方がない。
「そりゃー、持ち越さないでこの場でこの場で解決したいよなぁ。ここで逃げられちゃったら怒る相手がいなくなっちゃうもんなー」
は俺たちと同い年だが誕生日が遅いせいで、昔は特に体格の差が顕著だった。
チビで、生意気で、可愛げがなくて。トト子ちゃんのような愛らしさとも無縁の愛嬌なんてかけらもない、こましゃくれてムカつくガキだった。
だから親戚で集まった時はいつも六人で苛めていた。
誰かがいびって、誰かが怒られたら「僕じゃない」と躱して、別の誰かがその姿をからかって、それでまた怒ったら皆で逃げて置き去りに。そうすればは勝手に泣くから。俺たちは一度も負けたことなんてなかった。
女の子と認識する前にいいカモで、そのうち向こうもやり返すようになったから楽しくなってきて、身体の線が女を象ってくるより先に母さんやおばさん達女勢の中に隠れるようになったから、自分と違う性の生き物だと思い出すより前に「つまらない」と感想の方がずっと強かった。
要はその時から何も変わらないのだ。
いくらニートの俺たちと社会人のの生活リズムが違うとはいえ、同じ家に住んでてここまですれ違うことがないのなら、それは他に意図がある。
は今でも俺たちが嫌いで、そして区別がついていない。
「俺が誰だか当ててみてよ。そしたら謝る」
だんまり決め込んでヤなこと避けて通る自分のコミュニケーションがマシだと思ってんじゃねーぞ。話になるならないの前にそもそもお前は対話をしてねーよ。
「なんならお兄ちゃんって呼んでもいーよ」
「……」
「そしたら、仲間に入れてやる」
は笑った。
月明かりの逆光で口の端が動いたのがわかる。かすかに漏れる息の音。
「なに言ってんだ」
は嗤った。
鼻を鳴らして、頬を歪んだ形で吊り上げて、勝ち誇るように嘲笑った。
「男でも同じ顔でもないのに、仲間になれると思ってんの。おそ松?」
昔、俺が何度も何十回も言った言葉をそっくりそのまま引っさげて、は俺に言い放った。
「……」
「……ちょっと」
「今のなし」
「いや駄目だろ」
「俺が悪かった! ごめん! 謝るから! もっかい! もっかいさせて!!」
しまった。やらかした。悪い癖が出た。つい調子に乗って、昔自分がしょっちゅう言いまくってた台詞を口にしてしまった。もうヒントどころかほとんど正解をぶちまけているようなもんだった。あのまま大人しく黙ってりゃ上手いこと言い負かせて呼ばせることだってできただろーに。あーーーーーー!! もーーーーーー!! 俺の馬鹿!!
「謝るならまず酒のことを謝れよこのク……まぁいいや」
「そこまで出したらいっそ最後まで言ってくれる方がスッキリするからね!? なんでもいいからお兄ちゃんって呼べよぉーー!!」
「キモい!! こわい!!」
足下に縋り付きながら叫んだら容赦なく顔を蹴られた。痛い!! ひどい!! ええい、そっちが諦めるまで絶対離してやんねぇかんな!!
「なんで!? なんで出ていこうとすんの!? 俺まだ土下座してないよ? 謝罪聞かなくていーの!?」
「あんたが恐いからだよこの変態!! もういい、もう萎えたから! だから早く離して!!」
「やだ! お兄ちゃんって呼んでくれるまで離さない!!」
「欲望だだ漏れ!!」
「そもそもお前、女の子だから萎えるもんついてねーじゃん!!」
「は?」
「そんなんで勝手にやめるなんてフェラだけして最後までヤらせてくれないよーなもんじゃん!! 鬼!? 鬼なの!? お兄ちゃんそんなの許さぐげぇ!!」
衝撃が、こめかみから脳天にかけて綺麗にクリーンヒットした。俺の頭は、掴んでなかった方の足で、首から右頬にかけてをサッカーボールのように思いっきり蹴られていた。
「最ッ低」
一文字一文字吐き出す全ての音にどれもたっぷりの侮蔑が込まれていた。頭上を見上げなくとも汚物を見るような視線を向けられているのがわかる。うっわー……、これトト子ちゃんやってくんねぇかな……。
「あと六本残ってるから、あげるよ。皆でドーゾ、六つ子さん」
マジかよ!? なんで俺怒られたのこのケチ!!
なんてことを考えているうちに開けっ放しだった障子は閉められ、部屋の暗さの濃度が増した。狂った脳から送られた神経で視界に入った腕がぴくぴくと痙攣している。
「……さみぃ」
布団が恋しい。
一人になった居間ですっかり軽くなった音を立てる空き缶を拾って、のろのろと立ち上がる。
冷たいシンクの台所で濡らしたタオルと保冷剤を頬に当てていると、玄関の方でゴソゴソと音がする。音のした方まで出てみれば部屋に戻ったはずのがたたきに座って靴を履いている。
「ちょっとちょっと、こんな時間にどこ行くの。危ないよ〜」
「頭冷やしてくる。あんたらと同じところにいたくないから」
「そんなこと言わずにさ〜、夜も遅いし一緒に飲もうよ。お兄ちゃんとコミュニケーションとろうぜ〜」
「冗談だよ」
「と言いながら今まさに出ていこうとしてますけど!?」
誘いをすげなく断ったは後ろに誰もいないかのようにさっさと立ち上がり、引き止めにも全く応じることなく引き戸に手をかけようとする。
「だから! 危ないだろ!?」
勢いで掴んだ腕が想像よりもずっと強く引き過ぎての頭が胸に当たる。体が傾いたは不機嫌を隠そうともしない表情で俺を見上げる。心臓がすくみ上がりそうな上目遣いだった。
「平気だよ。いつも出てるし」
「……何しに?」
「銭湯」
「あー……、銭湯……。そっか、そっかー……」
思わず掴んでいた手が緩んで腕を離した。おのずと視線も上を向く。
ああうん、恥ずかしくはなったけど、ちょっと照れちゃったけど。お前の裸なんて想像できなかったから! AVの彼女のおっぱいしか思いつかなかったから!! だからそんなねめつけた視線を送らないで!! お兄ちゃんさっきからお前が恐くて泣きそうだよ!!
「あ、じゃあさ、帰ってくるまでに俺つまみとか買い直してくるからさ。帰ってきたら一緒に飲も?」
「いらないって。それ結局おじさんの稼ぎじゃん」
「大丈夫! 競馬で勝ったやつだから!!」
「……微妙」
「なんで!?」
賭けて倍に増やしたんだからそれは俺の稼ぎじゃん! それも小遣いって言われんのは納得しないんだけど!?
目線で訴えてみても暗さであまり見えないのをいいことに無視され、は微妙な空気を崩さないまま引き止まりそうな様子もない。
「な? 明日休みだろ?」
「いやに食い下がるな」
「なー、一本だけでいいからさぁー」
「……わかった。じゃあ帰ってきたらね」
「おう!」
そう約束を取り付けたは、その後帰ってくることはなかった。
「のばかぁああああ……」
「おそ松兄さんまだ酔い抜けてないんじゃないの?」
居間で伏せているとトド松が呆れた声をかけてくる。ちゃぶ台のスペースを大きく占領しているため、方々からもウザったそうな視線を痛いくらい投げられていた。
目の前に積んでいた空き缶は朝になって片付けられていた。同じ味を六本、一人で全部。旨味も面白みも何もなかった。
「酔ってねぇよ、拗ねてんの!!」
「二十過ぎの男が拗ねるな、キモい」
「チョロ松てめぇ!!」
「いや、キモいし」
「キモいな」
「キモいキモい」
「キモーい!!」
キモいがゲシュタルト崩壊しそうな勢いで言われた!! なんなんだこいつら!!
俺だってなぁ! キツいのは薄々わかってるんだよ! でも凹むだろ!! 拗ねたくもなるだろ!? 長年犬猿の仲だった相手と仲直りしようとなんとか約束漕ぎ着けたのに、実際当の置いてきぼりにされてあっさりザックリ裏切られたら!! 少しは拗ねたくもなるだろ!?
「うっぅ、兄弟は冷たいし、従妹は嘘吐きだし。なんだよ、ここに俺の味方はいないのかよ。俺に優しい世界はないのかよー」
「……守る気はあったと思うよ」
「んあ?」
「トド松のトイレの時に会ったんだけど酒とかつまみ買ってたみたいだし」
「でもおそ松兄さんと机の缶見たらせせら笑って上がってったよねー」
「えー、何時くらい?』
「えーと、三時?」
なんだそりゃ、そんな時間のことは覚えてない。
「あいつめちゃくちゃ長風呂だなー。もっと早く帰ってこいよー、そんなの寝てるに決まってんじゃん……って、え? なに? なんで皆揃ってそんなクズを見る目をしてるの?」
「まあちゃんも付き合うことなくなってよかったんじゃないのかな」
「そもそも仲良くするのが今更だしな」
「えぇ、無視? お兄ちゃんそういうのよくないと思うよ……?」
チョロ松がそう切り上げたことで、それ以上話の続きも、チクチクと俺を刺していた視線もなにもなかったように消え去った。こ、心が寒い……。
「……」
だらんと伸びた穏やかな空気の中で俺はもう一度ちゃぶ台に頭をつける。
は今日も朝から出かけている。きっとまた、日付が変わるギリギリまで家に戻ってこないだろう。
それがすごく落ち着く。
あいつが家に来てからずっと、こうやってそわそわするのが嫌だった。
は他人だった。
俺たちの敵だった。
貶めあって、陥れあって、あいつで遊んだことはあっても、あいつと遊んだことは一度だってなかった。
俺たちはずっと六人と一人だった。
だからあいつはいつもこっちを見てきた。
小さな頃も、俺たちを無視するようになっても、接触を最低限にしている今だって。
羨ましそうに。恨めしそうに。
ずっとこっちを見ている癖に。
男でも同じ顔でもないのに仲間になれると思ってんのバーカ!!
言い過ぎた。
昔、何度も何度も繰り返し言ってきた。
あの頃はその反応を見るのが楽しかった。本気で思った頃には俺の信用はとっくに地に落ちていて、もう声もろくに届かなくなっていて。
他人は結局、他人のまま。
我が家にいる他人は、いまだ俺の家族になってはくれない。