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 我が家には他人がいる。
 他人の名前は
 職場の寮が火事で全焼し、一時的にうちで預かることになった僕たちの従妹だ。

 他人が僕を見上げてくる。
 その冷めた目が、本当に嫌だった。

 深夜。
 僕とちゃんは居間にいた。
 銭湯帰りのちゃんと、まだ布団に入らずに起きていた僕。兄さんたちは上でとっくに寝ている。
 彼女は白湯を出してちゃぶ台に伏せた状態でテレビを見ている。僕もついでにココアを作ってもらった。我が家に居候してはいるちゃんだけど、日中僕らがいる間はほとんど姿を見せない。実際外に出ているんだろうけど、生息感もほとんど漂ってこない。だから知らなかったけど、どうやらこれが彼女の毎日の習慣らしい。僕がいてもいなくてもどうでもいいような雰囲気だった。
 それにしてもこうして目の前にちゃんがいるのを見ると、本当にうちに住んでいたんだと謎の感動と親近感があった。なんだかいると思っていなかった絶滅危惧種を見つけた気分だった。
ちゃん」
 顔が向くことはなかったが、意識はこちらに向いたのがわかった。
ちゃんが家に帰りたくない時ってさ、……どうする?」
「……」
 テレビを見ていたちゃんの目が僕へと移る。
 互いに何も言わない無言の間に、空っぽの空気を飲んだ喉が小さく鳴った。
「彼氏の家に行く」
「ぐはっ」
 僕は吐血した。
 胸を鷲掴んでちゃぶ台にうずくまる。
 め、めちゃくちゃ痛い。胃もキリキリするし、死ぬかもしれない。
「……大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ……」
 脂汗を浮かべながらなんとか笑顔を向けると、ちゃんはすんなり納得した。そのまま居間を出て、台所から取ってきたふきんで血を拭き始める。……ううん、クール。
 正直、もうちょっと心配して欲しかった。
「えっと、ほかには何かないかな?」
「ほかに」
「うん」
「……カラオケとかネカフェとか、ちょっと余裕あるならカプセルホテルとかかな」
「あー、そっかぁ」
 そっか。聞いてしまえば存外普通だ。
「……別に恋人じゃなくても友達の家でもいいけど」
「女の子にそんな格好悪いところ見せられないよ」
「……」
「ありがとうねちゃん、参考になった」
「そんなに嫌なら帰らなきゃいいのに」
 頬杖をついた指の隙間から溜息が漏れる。
「うん。今度はもうちょっと上手くやるよ」
「そうじゃなくて」
「?」
 首を傾げる僕にちゃんは頭をかいて横を向く。それをいいことに僕の頬はこっそり緩む。さっきから呆れた格好を取ってはいるけど、重たい瞼で覆われた目は心配しているし、見放す言葉を使う声も気遣わしげだ。
 これでちゃんが連れ出してくれるとかなら更に素敵だったんだけど、まあ生憎今は王子様も居候の身だ。こうして真剣に思ってくれているだけでも喜ぶべきだろう。
 ただ、あと一つ、なにか引っかかる気がするんだけどなんだろう?
 下がった眉に眉間の皺、心配した目つきに、気遣わしげな声。
「うーん……」
「家から出ればいいのに」
「うん? でも、いつかは帰らなきゃいけないし」
「帰らなくていいよ」
「……」
「……」
「……」
「……なんで頬を赤らめるの」
「え……、ついにちゃんが養ってくれるのかなって思って」
「違うから!!」
 えー、違うのー。こんな家抜け出して二人で暮らそうってことじゃないのー。プロポーズじゃないのー。弱ってるところに付け込む手法、僕嫌いじゃないのになー。
「まったく、冷たい王子様だよ」
「誰が王子様だ。膨れないでよ」
「えー」
「そうじゃなくて」
 咳払いをしたちゃんは、さっきと同じ前置きをもう一度言う。

「家に帰りたくないから街を彷徨うなんてのはね、子供の頃の選択肢なんだよ。トド松」
「……」
 本当、つくづく興醒めなことしか言わない王子様だ。
「お説教ならいらないよ」
「本気で凹んでる癖に」
「だって、どうせ兄さんたちからは逃げられないし」
 犬並みの嗅覚に、セールス並みのしつこさに、ゴキブリ並みの生命力だ。巻いても潰しても沸いて出てくる。
「逃げられないんじゃなくて、本気で逃げる気がないんでしょ」
「はいはい。そーだね、だって働くのは面倒臭いし」
「どれだけお金があったか知らないけど、取られたくなかったなら、一番高い切符買って高飛びでもすればよかったんだ」
「もうそんなお金ないよ」
「今の話じゃないよ」
「仮定の話なんて無駄だと思わない?」
「嫌なら相当な距離取らないと逃げ切れないよ」
ちゃん、家族とも仲悪いもんね」
 別に、そこまで考えてなかった。
 自分でもびっくりするけど、あの時は本当に何も考えていなかった。
 取られたくないと思ったのだって、兄さんたちに見つかって初めてようやく頭に浮かんだことだった。
「そこまで搾取されて、それでもまだ家族を選ぶの?」
「……」
「家族の方を選ぶってことはトド松に本気で逃げる気がないんだよ」
「うるさい」
 ちょっと自立していないだけで、こんなに何もかも取り上げられないといけないのか。
 どうせ這い上がろうとしたって、すぐ残りの五人が足を引っ張ってくるのに。
「それじゃあずっと搾取されたままだ。でも、それは君が他の代償と比べて、利益を取った結果なんだよ」
「うるさいうるさいうるさい」
 全部耳障りだ。なにより僕を見てくるその目がうるさい。
 心配して同情して可哀想なものを見る目つき。
 平坦な顔して悲しそうにしやがって。言いたいだけ言って、何も掬い上げてくれない癖に。
「トド松、誰かに強いられてそうなったと思ってる? 違うよ、それは自分で選んだんだよ」
「もういい、ほっといてよ」
 下がった眉に眉間の皺、心配した目つきに、気遣わしげな声。
 さっき引っかかったもう一つ、彼女が何を持っているのかわかった。
「それは君の意思だ」
 僕が、僕たちが理解できないことに対する拒絶だ。
「……ちゃんは! 六つ子じゃないからそんなこと言えるんだよ!!」

 ちゃぶ台を叩いた後、静まり返った部屋で僕の息切れだけが聞こえる。
 何か言い返せばいいのに、ちゃんは何も言わない。
 ぽりぽりと頭をかいて、ただ僕を見つめ返してくる。
 冷たい。
 肌に伝わる温度が。音のない静寂が。廊下から手を伸ばしてきそうな暗闇が。
 僕を見上げるちゃんの目が。
 その冷たい沈黙が本当に嫌だった。
「  」
 なにか。
 なにか、言ってよ。
「それを言われちゃ、どうしようもないんだけどさ」
「〜〜〜〜〜〜ッ!!」
 僕は居間を出ていった。そのまま走ってトイレに駆け込む。
 ちくしょうちくしょう!! どうしようもないってなんだよ! もうちょっと頑張って考えろよ!? なんの活路もないってことかよ! そんなんで自分で選んだって言われたって意味わかんないよ!!
「ワケわかんねぇよ、言ってることムチャクチャじゃん……」
 別にここまで怒っていなかった。怒っていたけど、それは今日のことに関してだけだった。それだけ。それだけだったのに。
「あー、もー」
 ちくしょう重いしんどい気持ち悪い!!
 わかったよ! わかりました! じゃあ努力するよ!! すればいいんだろ!?
 こんなところ抜け出してやる!! 全部捨て切ってやる!! 今までずっーーーと一人で生きてきたような顔してやるよ!!
 抱えていた膝を固く握って僕は決心する。
 六つ子なんかやめてやる。





 それからしばらくして、僕は兄さんたちに内緒でバイトをしていた。バイトのことは家族の誰にも、もちろん我が家の居候にも言っていない。
 だが、僕の目の前には今、居候がいる。
「キャラメルマキアート一つ」
「はい、キャラメルマキアート一つですね。ご注文は以上でしょうか」
 ちゃんは頷く。最初に一瞬不可解な顔をしたが、すぐに関心をなくして注文に入った。
 この顔は、また僕が何松かわかってないなこのやろう。下手したら七人目の赤の他人と思ってる可能性すらある。
 他の堕落した兄弟たちと見分けがつかないことに腹が立つが、下手に絡んでこないのは都合がいい。僕も素知らぬ振りをして同僚から受け取った品をお客様に手渡す。
「はい、トッティー」
「ありがと。お待たせいたしました。キャラメルマキアートです」
「ありがとうございます」
 飲み物を受け取ったちゃんは満面の笑みでにっこりと笑った。
 あまりにも満面の笑みなもんだから、思わず固まってしまった。
 うわ笑った!! めっちゃ笑ったよ!! 外向けだとそんな風に笑うんですね!? うわー! うわー!! 写真フォルダに収めたい!!!
 我が家での彼女の笑顔といえば、嘲笑とかせせら笑いとか、常に僕らを馬鹿にした笑いしか見てきてなかったので、正直ちゃんが入店してきた時よりも大分、かなり動揺してしまった。固まったのがちゃんが既に飲み物に触れている時でよかった。あとは彼女が持って終わりだったので、本心を悟られず商品も落とすことなく無事に渡すことができた。
 うわー……、可愛かった……。ほんと、スマホ欲しかった……。
 ぼんやりとちゃんの背中を見送っていると、ちょうど外の片付けから戻ってきた店長が道を開ける。
「あれ? 今日は持ち帰りですか?」
「そうなんです。ちょっと用事があって」
「そうですか。外は寒いので気をつけて帰ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
 ちゃんが出ていった後、僕はそのままレジの方まで来た店長に話しかける。
「常連の方ですか?」
「ああ、さっきの人? そうだね。毎日ってほどではないけど、よく来られてるよ」
 店長がドアの方を見るので、僕の首もつられて窓の外に向いた。
「いつもは深夜近くまでいらっしゃるんだけどね。まぁ早く帰る分、今日の方が危険じゃないのかな?」
 余計なお節介だね、と店長が少しだけ照れる。
 外を歩くちゃんはくしゃみをしていた。

 家に帰りたくないから街を彷徨うなんてのはね、子供の頃の選択肢なんだよ。

 ……子供、みたいだ。
 頭で浮かんだ言葉に口元が少し緩む。なんだ、同じじゃないか。
 年だけとって、体だけ大きくなっても、全然大人になれなくて。割り切れないけど、他に行く宛てもないから、仕方ないように家族が寝静まるまで外をブラブラ。
 後ろにあった時計を少し見る。僕のシフトはあと一時間。
 頑張ろう。それからシフトが終わったら公園や河川敷にでも寄ってみよう。







「まだ起きてたの」
「ココア欲しい」
「前も言ったけど、お前ココアってついでで作る手間じゃないからな」
「駄目?」
「言っときたいだけ」
 部屋はすぐに静かになる。
 一人になった居間で、暇つぶしにスマホをいじってラインのアイコンをタップしようと思ってやめた。
 机に俯せになっていると障子の擦れる音がした。
「ありがと」
「……ごめん」
 ココアを差し出しながらちゃんが謝る。
ちゃんが兄さんたちに言ったの?」
「ううん。そうじゃないけど……」
「なら謝らないでよ。仕方ないことだからさ」
 そうだ、蹴落としあいなんていつものことだ。
 今度は僕が加害者側に回ってやる。それだけだ。とりあえず三男はコロス。一松兄さんも絞めてやる。なにがおかえりだ。あいつら絶対覚えとけよ。
 それだけだ。
「……ちゃん」
「うん」
「今度、ここじゃなくて、居酒屋行こう」
 まずは僕もごめんって言おう。
 それから愚痴を聞いてほしい。
 一時的でいい。個室で、見栄を張らなくても、外の目にも怯えなくてもいいところで。できれば兄さんたちのいないところで。
「昔は僕がちゃんのお兄ちゃんだ、って年上ぶってたのにね」
「懐かしいな」
 あの時みたいに、末っ子同士、彼らの耳に届かないように。
 二人で内緒話をしよう。
「トド松」
「うん」
「お疲れ」
「……うん」
 我が家にいる他人と、僕は共犯者になりたい。