我が家には他人がいる。
他人の名前は。
職場の寮が火事で全焼し、一時的にうちで預かることになった哀れな子羊──俺たちの従妹──だ。
他人は俺の口元に箸を差し出す。
ほこほこと湯気を上げた回鍋肉の匂いが鼻をくすぐった。
誘拐騒動から数日後、俺たちが二階でくつろいでいるところに突然なんの前触れもなく襖が開かれた。あまりに勢いよく開かれた音に、思わずその場にいた兄弟全員が振り向く。家族が普段開ける時とは緊迫感がまったく違う。
いささか早くなった脈拍を体内で感じながら廊下を見ると、そこにはが立っていた。難しそうな顔で部屋の中を見回したは俺のところで視線を止めると、こちらに向かって歩いてくる。
おそらく俺たち六つ子の見分けがつかないことに起因しているのだろうが、眉間に皺を寄せたままズンズンと近寄られると睨まれる側としては身が竦む。
ふっ……、これが蛇に睨まれたカエルってやつだな。
座っているソファーの背にギリギリまで身を寄せても距離は幾許も開かなかった。周りにいたはずの兄弟たちも被害をこうむらないよう避難してから、こちらを遠巻きに見ている。このひとでなし共め!!
「どうした?」
態度だけはいつも通りを装いながら話しかければ、目の前のは土下座をしてきた。
「!?」
「ごめん」
「なにがだ!? いいから顔を上げてくれ……」
「百万円、用意できなくてごめん」
「……」
「本当に、すまなかった」
「、顔を上げてくれ。お前が謝ることじゃない」
「でも、そんな怪我して……」
左足と左腕にギブスをはめて、頭は右目にかけてまで包帯巻き。頬にガーゼも貼っている。すがすがしいまでに満身創痍だ。
痛ましそうに顔を歪めるを見て、俺まで鼻の奥がツンとした。
「……っ大丈夫。見た目ほどそんなに痛くはないんだ」
「でも」
「お前の気持ちだけで、十分嬉しい」
「……わかった。じゃあせめて」
怪我が治るまで手伝わせて欲しい
────そんな経緯で俺は今、に介護されていた。
「ごめん、早かったか」
「あ、いや、食べる」
「ん」
慎重に運ばれる回鍋肉を口に入れて、俺もゆっくり咀嚼する。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
おいしい。
腹の辺りから嬉しさがこみあげてくる。母さんの作る飯は元々旨いが、より一層おいしさが加味されている気がする。
同じようにちゃぶ台を囲んだ兄弟たちからチクチクと視線が刺さるが、それよりもこのむずがゆい気持ちを抑えてこの場におとなしく座っていることを褒めて欲しいくらいだ。
本当に不思議だ。
今度、本物の彼女ができたらまたやってもらおう。
「ほい、ラスト」
「ん」
最後の一口を食べ終わるとは開いた食器を片付け始める。
「どうする? 部屋行くか?」
「ああ、頼む」
「わかった」
風呂はが帰ってくるまでにすませたし、特に用事もない。は俺の面倒を見ている間は自分のことをしないので、早めに戻った方が迷惑もかからないだろう。
肩を貸してもらって立ち上がり、松葉杖で廊下に出る。
「悪いな、迷惑かけて」
部屋にまでついてきたは、ギブスをはめた左腕を支えつつ、パジャマに腕を通しやすいようにしてくれる。
「怪我人が気ぃ遣うなよ。私がやりたくてやってるんだから」
「しかし、俺ばっかりしてもらって、少し、他の兄弟にも悪いと思ってな」
「何で怪我してない奴らのことまでお世話しなきゃいけないの。幼児か」
「そういう訳じゃないが」
「心配しなくても今の間だけだよ。完治したら助けない。別にカラ松が特別じゃない。首、キツくない?」
「ああ、大丈夫。……そんなもんか」
「当り前じゃん。誰が怪我してても同じだよ。怪我してる奴は助けるし、そうじゃない奴は面倒見ない」
「そうか……。そっか」
後ろで三角巾の結び目を作っているは、俺に不審そうな声だけ向ける。
「……なに?」
「いや、なんでもない」
それからは俺の世話を焼き続けた。
いつも早めに家に帰ってきては、着替えを手伝い、食事を手伝い、移動を手伝った。
どんなにおそ松たちが視線を刺してきても存在を無視し、例え同じタイミングで兄弟が食べ終わったとしても片付ける食器は俺の分だけ。たまに手土産として渡される菓子も一つ分だけ。
「……いただきます」
透明な膜の錯覚が見える。
自分だけ別の水槽に移し替えられたみたいだった。
あいつの付き合い方は関わった奴だけ鋏で切り離して、引き込んで、世界にそいつとしかいない気にさせるような付き合い方だった。
居間で貰ったシュークリームを一人で食べていると、大きな水泡が向かってくる。
顔面近くまできた水泡が割れるとおそ松の声がした。
「あーーーーーーーー!!」
ワンテンポ遅れてクリアになった視界の先で、障子を開けたおそ松が俺に向かって指を指している。
「カラ松ばっかりずりぃ〜〜〜!!」
「いるか?」
「いらねぇよバぁーーーカ!!!!」
そうはいうおそ松だがちゃぶ台をバンバンと叩きまくっている。かと思えば再び俺に人差し指を突きつけてきた。
「言っとくけどな、お前だけじゃないかんな! あいつお前のこと色と包帯でしか見分けつけてねぇからな!! 俺だってカラ松のフリしたらあーんしてもらえたわ!! 大体お前右利きなんだから手は平気だろ!? 彼女もまだの癖してあんなことしてもらうとかほんとなに!? マジ死ね!!!!」
「お前が死ネ」
わめいている兄の後ろに立っていたチョロ松が左腕をおそ松の首にかける。手首も右腕でしっかり挟んで固定して、そのまま首を絞め上げていく。ちょっと上体が浮いていた程度だったおそ松は、やがて次々と加わっていく弟たちのリンチによって最終的には足が宙に浮くレベルまで吊るし上げられていた……。
弟たちは気絶したおそ松を引き摺って何事もなかったように部屋を出て行く。
最初のおそ松以外、誰も俺には文句を言うことも、制裁を加えることもなかった。
「カラ松」
「おかえり」
「靴がなかったけど、他の奴ら出かけてんの?」
「お前を待ってたんだ」
「もう一声」
「俺たちも街に繰り出そうじゃないか」
「うーん、あと一歩」
「ふっ……、気にするな。一人お前を待つこの時間もまた、悪くなかったぜ」
「わかった。ごめん。ご飯行こう」
哀愁を湛え廊下に戻るかと思っただが、再び障子からひょっこりと首を覗かせる。
「どうした?」
「そういえば、店の人がおいしいって言ってたから梨買ってきたんだ。食べる?」
そういって掲げられるビニール袋に俺は思わず目を見開く。袋の形状からして、おそらく中身は一個しかない。家族と話さないは、きっと最近我が家に梨がお裾分けされていたことなど知る由もない。
少しこわばった身体を悟らせないように弛緩しながら返事をする。は鏡のように薄く笑った顔で返してくれた。
「……帰ってから、もらったのでもいいか?」
「ん、わかった」
晩飯はチビ太の店で取ることにした。
大根、卵、こんにゃく、厚揚げ、ちくわ、ちくわぶ、がんもどき。いつもだってツケで、払わないのは変わりないのに、奢りだとわかっているとついあれもこれもと欲張ってしまう。数日前はこの熱さに散々痛めつけられたが、舌に乗せればやはり旨い。食べ物に罪はない。
定番を食べてある程度腹が落ち着いた。次は何を食べようか目を彷徨わせていると、頬杖をついたチビ太が「がっついてんなァ」と呆れた視線を寄越した。
「……」
確かに意地汚かったか。隣のの様子をそろそろ窺うと、いつもの険はあるが敵意のない目で見返されて終わった。
「ごぼう巻くれ」
「……あいよ」
とりあえず、追加注文は一個ずつにしよう。
「」
「なに?」
「買ってくれた梨なんだが、皆で分けてもいいか?」
「なんで」
返す声は固い。今までどんなに笑っていなくとも怒ることはなかったが、今の言葉にだけは明らかな反感を持っていた。声が重い。こちらを見る目も据わっている。
一体何が気に障ったのかわからず、続けて喋る喉が震えてしまう。
「み、皆で食べた方がおいしいだろ。あれならちょうど六等分できるし……」
「そんなにガツガツ食べといてよく言うよ。あれはカラ松に買ってきた物だ。他の奴のためじゃない」
「…………俺たちのことが嫌いか?」
「……」
「何も言わないってことは嫌いじゃないと捉えるが」
「なんでだよ。そこは無言を肯定と捉えるところだろ、ポジティブだなぁ」
「は素直じゃないからな」
「素直じゃないのは否定しないが、その言い方だといかにも私が本心はあんたらのこと好きみたいに聞こえて釈然としない」
「え!? 違うのか!?」
「だからなんでそうポジティブなんだよ!? 口の中にカエル入れられたり、身売りに出されそうになった恨み忘れてねぇからな!?」
「ごめんなさい!?」
うわー、覚えてない。おそ松かチョロ松そんなことしてたのか……、酷いな。
一度目をそらして、緊張で乾いた口を日本酒で湿らせる。
「だが、は優しい」
「そう言っとけば無限大に奢る訳じゃないからな」
「その優しさを俺だけが貰うのは不平等だ」
「一人だけ怪我してるのに?」
「最初に言ったがそんなに見た目ほど痛くないんだ。怪我の分を差し引いても、俺だけ貰い過ぎている」
「たかが梨一個くらいで」
「それに、食事はやっぱり家族みんなと食べた方がおいしい」
「……」
「皆で分け合った方が嬉しいよ」
「……本気?」
「? なにがだ?」
は優しい人間だ。
だって、今まで兄弟単位で蔑まれることはあっても、俺は一度も彼女から俺自身に軽蔑の目を向けられたことがない。
だが彼女は今、蔑んだ目で俺自身をせせら笑っていた。
「すごいな、草食動物を見ているみたいだ」
「どういうことだ?」
「いや、シマウマというより腹出した犬か? どうぞそのまま食べてください、って最初から負けてんじゃん。カッコわる」
「……」
「自分が得た報酬を他の奴に無償で明け渡すとかさぁ、男の子なのにそれでいいの?」
ああ。
「今までずっと同じ年の兄弟が六人もいたんだ。自分だけのものにしたって誰かに奪われて取り上げられて、最後は皆で分け合った」
「そりゃー、お気の毒にねぇ」
単に、今まで運良く怒らせるようなことをしてこなかっただけなのか。
「ずっとそうしてきたんだ。だったら、最初からそうする方が建設的じゃないか?」
「相手に奪われるから、隠しても逃げてでも何がなんでも絶対に手放さないんだよ」
「それは不公平だ」
「愛情をいくら平等にしようと思っても差は出る。お前だって、一松と扱いが違うことを怒ってたじゃないか」
「俺は……」
でも、なんでが怒っているのかわからない。
、すまない。
「俺は、俺が、俺一人が一番になりたいんじゃない。六人の中の一人になりたいんだ」
そう扱ってくれるなら、誰と見られても構わない。
「だから誰が俺の立場になったとしても、同じように面倒を見るとが言ってくれたことが嬉しかった」
「……」
「あの時、お前が俺を特別じゃないと言ってくれて嬉しかったんだ」
「……わかった。じゃあ他の五人と同じ扱いに戻すよ。自分の食べた分は自分で払って帰れよ。私は自分の分しか払わないから」
「え……」
は、席を立って自分の分だけ財布から取り出していた。
う、うそ……。掴むあてもなく上げられた指の間から、冷たい夜風がすり抜けていく。
「……」
「……」
「……チビ太」
「なんだよバーロー」
「ツケで」
「いつも通りじゃねーか!!」
なあ我が家にいる他人よ、お前はきっと優しい。
そのお前が、どうしてあそこまで怒ったのか、どうしたら過去の過ちを許してもらえるのか、俺には何ひとつわからないが、いつか。それでもいつか。
いつか、兄弟皆で仲良くなれたら嬉しい。
俺はそう、願っている。