我が家には他人がいる。
他人の名前は。
職場の寮が火事で全焼し、一時的にうちで預かることになった僕たちの従妹だ。
僕は他人に手を振った。
他人はちょうど不動産屋から出てくるところだった。
「ちゃーん!!」
商店街付近の往来で二人で思いっきりハイタッチする。
バチン!と鳴った大きな音に通りかかった猫が早足で建物の角まで逃げ込んでいった。ごめんね!!
「CRこんにちはー!!」
「? SRおつかれー」
「SRってなにー?」
「さぁ、多分当選確率1.25%ってことかなぁ?」
「すっげーレア!! 俺レア大好きー!! ミディアムも好きー!」
「私はウェルダンだなぁ」
「ちゃん家建てんの? 僕ね、すっげぇいいトコ知ってるよー!! 一松兄さんの友達がいっぱいいんのー!」
「野宿かな?」
ちゃんは意外とノリがいい。
「おかげさまで貯蓄もそこそこ貯まってきたしね。賃貸物件を見てきたんだ」
「不動産屋ならうちの隣にもあるのに」
「いいんだよ。こっちの方が職場に近いから」
「そのこころはー?」
「六つ子の近くにいたくない」
一片の機微もなさそうな真顔で言われた。
デットボゥル!! ど直球ー!! 一塁へ! 一塁へ進ませてください!!
「ちゃんひっでー!! 毒舌ー!! …………?」
ケラケラ笑っていた僕はある違和感に気付き首を捻る。
「……あー?」
「十四松、首が折れてる」
ちゃんが平坦な声ながら少し引いてる。
僕は九十度直角に曲げていた首を縦に戻して、伸びた袖口で口を隠した。目がデフォルトの人間寄りの半円になる。
隠した口元で文頭に話した言葉を繰り返します。はい、復唱復習やり直し。
「我が家には他人がいる……」
「うん?」
「他人の名前は」
「おー」
「職場の寮が火事で全焼し、一時的にうちで預かることになっ、あずか…………全焼? 寮……?」
「十四松、顔だけ真後ろ向くのやめてくれるか?」
指摘されて、フクロウみたいになっていた首を前へ戻した。ぃよいっしょぉお!!
「ねじれてるねじれてる」
「あれ?」
ゆっくり逆時計回りに一周したらOKをもらえた。
それでもやっぱり首が傾いてしまうから、いっそ上体ごと折り曲げながらちゃんに聞く。
「寮って不動産屋で見るもんなのー?」
「見るもんだよー」
「そのこころはー?」
「その話は全部嘘」
「え?」
「……」
「……」
「……」
「えぇえええぇええぇええええ!?」
「嘘吐き! 嘘吐き! 嘘吐きー!!」
指を突きつけて激しく責め立てる僕にちゃんは気まずそうに目を逸らす。
弁解やごまかしを一切しようとしない姿勢が、事実なのだとますます僕の怒りのゲージを上げていった。
「騙してたのね、この裏切り者!!」
「……ごめん」
「ちゃんのために家から布団からなにからなにまで用意したのにー!!」
「あ、う、本当にごめんね……」
「僕のことは遊びだったんだぁああ!!」
「十四松、謝る、謝るから、お願いだからその浮気の糾弾みたいな言葉のセレクトやめてえええええ!!」
僕たちの周りにはたくさんの人だかりができていた。
閑話休題。
「うう、本当にここ職場に近いんだよ……しにたい……」
「ちゃん株価大暴落!!」
「もう近所の弁当屋行けない……」
「元気出してちゃん!」
肩をぽんぽん叩くと泣きが入ったちゃんが僕を見上げる。
「……十四松は本気でやるからなぁ」
「本気で怒ってるよ?」
「ごめんなさい」
何で本気だと思ってないんだ。顔か。この顔なのか。六人全員同じ顔だぞ。
僕は最初から大真面目だ。
嘘はひとつも吐いてない。
浮浪者になりそうだったちゃんに家や(実家だけど)布団を用意したのは事実、まごうことなく僕だった。
だって、あの時のちゃんの様子はなんだか尋常ではなかったのだ。
「それでちゃん「ホームレス♪ ホームレス♪」って歌ってたんだね」
「……割と気が狂ってる時の言動だから、できれば忘れてもらえるとありがたいんだけどな」
あの時、ちゃんは変だった。
夕暮れ時、河川敷。僕は練習帰り、ちゃんは仕事上がりのようだった。僕たちは正月振りに鉢合った。
あの公園の近くでちゃんの姿を見たのは初めてだったから、多分当てもなく歩いていたんだと思う。
擦りむいた膝頭も裂けたストッキングもそのままで、僕らを見て一度は硬直するいつもの癖も表に出さず、声をかけた僕の顔をただじっと見ているだけだった。
うんともすんとも言わないちゃんを引っ張って、怪我の手当てだけでもしようと玄関に上げた時にようやっと、居間から顔を出した兄さんたちに向かって口を開いた。
「寮が燃えて、家に帰れなくなった」
「あの時なんであそこにいたの?」
「家に住めなくなったのは本当だったから」
「なんで?」
「……同居人に追い出されて」
「男っすね!!」
ぼかして言ったけど野郎関係だ! 痴情の縺れだ!!
ちゃんは僕の立てた親指を見ないようにしながら「私の家だったんだけどな……」と言い訳がましく続ける。
「彼氏というか保護というか……うちに一時的に置いてた奴がいたんだけど、そいつに全部持って行かれたみたいで。帰ってきたら部屋はすっからかんで、よく分からないけど大家さんにも解約済みだって追い出された」
「付き合ってないところが尚悪いよ!!」
「ぐ……」
「そっか、ちゃん貢ぐだけ貢いで捨てられちゃったんだね」
「……そうっすね」
まさかちゃんにヒモ扶養の素質があったとは。
ただの火事よりよっぽど昼メロぽかった。ぶっちゃけちょっと楽しかった。
ちゃんは不服なようで何か言いたそうにすっげー渋い顔をしている。眉間だけじゃなく唇の下にも皺が入っていた。
「よくあることっすよ! どんまいちゃん!!」
「あー、うん」
「俺もつい最近失恋したし」
「は?」
「あ、でもちゃんみたいな酷いやつじゃないよ! 告白して振られただけだから」
「酷いって言うな!」
「彼女ね、田舎に帰るから。だから僕とは付き合えないって言われたんだ……」
「え、あ、唐突」
大きなおさげ。鼻のそばかす。小さな口に、ふわりと浮かぶ赤のロングスカート。
一緒にプリクラを撮って、カフェに行って、公園でボートを漕いで、だるまさんころんだをして。
初めて出会った時に身に付けた水芸で、きっと読書とかが似合う大人しそうな外見の彼女の、その小さな口が奥歯まで見えるほど、思わず腹をよじって地面を叩くほど、ちょっと呼吸困難で死にかけそうなほど笑わせて。零れた涙を拭う指先や、俯いた時に見える睫毛の影。寝転んでしまった彼女を引っ張り上げた際に鼻先を掠める香りが好きだった。
「ぐっは!!」
「十四松!? じゅうしまつー!?」
「女の子ってどうしてあんなにいい匂いするんだろ〜〜〜〜」
「……うん。わかったから。道の真ん中で吐血しながらゴロゴロするのはちょっとやめてもらえないかな」
男に逃げられるのには気付かないのに、周りの目は気にするらしい。
あんまりちゃんが冷たい目で見てきてしょうがないから、河川敷までそのまま移動した。
追いついたちゃんは息を切らしながら「お前は坂道転がり落ちるドラム缶か!!」とのちに語る。
「引っ越し当日に振られたから、最後に見送って「また会える」って約束したんだ」
チビ太の店から品川駅まで走って、駅に着いてからもホームまで走って、ホームに着いてからも走って、声を張り上げてお別れをしてきた。のどちんこがめちゃくちゃ振動した。
そうして走り去る遠くへ行く止まらない新幹線を見送って、ホームの端っこで仰向けになった。
すっきりした。気持ちよかった。でもいろんなところが痛かった。
バクバクと鳴る心臓、酸欠起こした脳みそ、乳酸すごい出している筋肉や軋む関節。全部無視してそれよりずっと肋骨の真ん中、胸の内側がつっかえて、なにかが刺さったように痛かった。
でも、何故か僕は笑ってた。
何故だか僕はよかったと思っていた。
話を聞き終えたちゃんは言葉をどれにするか迷って選んで「じゃあ今も連絡は取ってるんだな」と言った。
「え? 取ってないよ?」
「え?」
しばし見つめ合う僕とちゃん。
「だって駅まで見送りに行ったんだろ? その時に連絡先とか交換」
「してない」
「電話番号」
「聞いてない」
「住所」
「わからない」
「……ラインのIDとか」
「僕携帯持ってないよ」
「だよな。持ってなかったよな。……えええ」
「その時は彼女もう新幹線の中だったし」
胸が裂けそうなくらい大声で、言葉を伝えることだけはできたけど。喋るまでにはとても速さが追いつかなかった。
あの笑顔で十分やり取りはできたと思うけど。
ちゃんは引き続き「えええ」と知り合いから高級システムキッチンでも勧められたような顔で僕を見ている。さっきまでの神妙な顔はどうした。
「え、じゃあお前、今その子がどこにいるかも知らないんだよな」
「うん」
「彼女が何をしてる人とかも聞いてないんだよな」
「ないね」
「それでどこで会うって言うんだ」
……。
「わっかんない」
首を曲げる僕にちゃんは溜息を吐く。
「連絡先も知らない、居場所も知らない、何をしてる人なのかもわからない。それでいつ、どうやって「また」会えたりできるんだ。運命や偶然が繋ぎとめてくれるなんて思ってるのか」
僕はそれに返す言葉を思いつかない。
別にわからなくてもいいと思ってた。
嘘や慰めで言ったつもりもない。いつかはわからないけどまた会えたらいいと思ってる。
彼女が最後に笑ってくれたみたいに、元気でいてくれればいいと思ったから。
だから、場所とか時間とかそういう具体的なものにあまり興味はなかった。
「十四松、その子のことまだ好き?」
「好きだよ」
「何処行きの新幹線に乗ったとかわかる?」
ちゃんが足元に何かを投げ捨てる。緑の薄い手帳みたいな物。落とされたそれは通帳だった。
うん! その性格直した方がいいと思うよ!! おそ松兄さんなら全部取られてパァだよ!!
「何か匂いとか追えないのか野生動物」
その言葉に僕は鼻をひくつかせた。
嗅いだ空気の中にあの香りはまだかすかに残ってる。
きっと追える。
「ちゃん、いいんだよ」
きっとまだ、追いかけることはできるけど。
「なんで。お前ならどこに行ったって、後から家に帰って来れるだろう」
ちゃんは僕のことを犬か何かだと思ってる。
本当に犬なら俯いて見えない視線も合ったのかもしれない。
「じゃあ、そんな約束をするな」
「ちゃん」
「できない約束なんか簡単にするな」
ちゃんの目は見えない。声を詰まらせることも、体を震わせることもしていない。
「そんなのに何の力があるって言うんだ」
「ちゃん、これはいらない」
足元に捨てられた通帳をちゃんの手へと戻す。
「ちゃんと自分のお金で会いに行く」と伝えたら「いつ行くって言うんだこのニート」と恨み言を言われた。
「大体お前、さっきまで自分から会いに行くって発想もなかっただろう」
「う」
おろおろ視線を動かした後に、それでもここからまだ動かない理由を見つける。
「だって、ちゃんボロボロだよ」
「私はもう出て行くし関係ない」
「…………」
あーもう、なんでこの子はそういうこと言うかな。
「わっかんないなぁ」
「じゅうし、ま……」
「ねぇ、そんなにどっちかを選ばなきゃいけない? そんなにどっちかを選ぶためにのにもう片方を捨てなきゃいけない? この世の全てが科学と論理で説明できる訳でもないのに。白黒つけられないグレーゾーンの倫理観なんてたくさんあるのに。ものの見方なんてその時の感情任せや単なる好みかもしれない、とても不確かなものばかりなのに。そんなに全部に結論をつけなきゃ出さなきゃいけない? 僕はあの子も家族も大事だよ。確かなものはなにひとつないけど、未来も約束もなにもないけどいつか会えたらいいと思ってる。それじゃいけない?」
「いけない。結果的にお前は家族を選んでその子を切り捨ててる。しかも私は六つ子じゃない。お前たちの家族でもなんでもない」
「心配だよ。切り捨てられない」
見返す目は頑なだ。
「ちゃんはその人のこと切り捨てたの?」
「捨てたからここにいるんだろ」
「ねぇ、ちゃんはその人のこと好きだったの?」
「好きじゃない」
「なんでいなくなったの」
「理由なんてどうでもいいだろ。私に見る目がなくて、そんな奴を入れてた私が悪かった。それで十分だ」
「なんでいなくなったの」
「知らないよ」
「ねぇ僕はなんでって聞いてるんだよ」
「うるさいな! 私がわかる訳ないだろ!! なにも言わずにいなくなったんだから!!」
癇癪を起こしたちゃんは喉から血を出しそうな声で言う。
「私に見る目がなかった。私が悪かった。もう終わった話だ。それでいいだろ! なんで駄目なの!?」
その場にへたり込んだちゃんの傍に寄って僕もしゃがむ。
垂れた髪で隠れた顔は相変わらず見えそうになかった。
「本当にその人に会いたくない?」
「わからない」
「本当に、ちゃんが悪いと思ってる?」
「……わかんないよ」
「じゃあ一緒に待ってよう」
駄目だとしても僕たちがいるから。
名前も電話番号もなにもわからない。でも、また会えたらいいと思う。元気でいてくれたらいいと思う。
信じたい気持ちがあるなら、そんな不十分な事実だけで消してしまわないで。せめて本当になくなるまで待ってあげよう。
「ちゃん、家に帰ろ」
「殺してほしい」
帰り道、手を繋いで歩くちゃんは不穏なことを呟く。
わからないところにいるのは嫌なんだ。
ずっとそのまま考え続けるのは嫌なんだ。
どうせ答えは見えないし悪いものに決まってる。そう思ってないと、期待をして駄目になるのが怖いんだ。
そこから動けなくなるのは嫌だ。
だからさぁ。
「殺してよ十四松」
「……殺せないよお」
一人にはできない。
一人にはなれない。
だって僕たちは、生まれた時から六人だったから。
三つ編み。そばかす。大きく口を開けて笑った彼女。
彼女を捨てた訳じゃないけど、僕はここにいたんじゃいけなかったんだろうか。
僕は彼女を一人にしてしまったんだろうか。
我が家にいる他人が元気になるまで、せめてまだ一緒にいたいだけなのに。