我が家には他人がいる。
他人の名前は。
男に貢いで金を使い果たし、大ホラ吹いて一時的にうちに居候することになった僕たちの従妹だ。
「あら」
背中でもう醤油がないと白々しく話す母さんの声がする。
他人はきっと、僕が耳をそばだてているとか、彼女がまるで今偶然気付いたように呟いたタイミングだとか、きっとなにも知らないで生きている。
「えっと、じゃあ醤油、みりん、長ネギ、豆腐。あと卵と牛乳。それと食パンですね」
「お願いね。あ、それから鶏もも肉も買ってきてちょうだい。明日は唐揚げにするから」
「わかりました」
流し台を出て階段を軽快に駆け上がっていくはその足音を隠すこともしない。
十四松と一緒に帰ってきた日、嘘がバレてから、は身を潜めるのをやめた。
それまでは息を詰めるように部屋にいて、襖を引く音さえ同時に立てることなどなかったのに、今では帰ってきた時に普通に居間にいたりする。自分の洗濯物を畳まれているところなんかを見るとちょっとビビる。(ちなみにあいつが畳んだ時はパンツ六枚全部一緒にされているので概ね兄弟からは不評だ)
頭上から聞こえる、両親とも兄弟とも違う早くて軽い音に少し新鮮な気持ちを覚えながら、僕は冷蔵庫の蓋を閉める。廊下に出て玄関まで進むと、たたらに座って靴紐を直しているがいた。
「僕も行く」
覗き込んだは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
「荷物、重いだろ」
「あ、うん」
歯切れの悪いをほっといて外に出ると、襟元から入った風が首を撫で付ける。昼の時間帯だから息が白くなるほどではないにしろ、十二月の冷たい空気は身に染みる。僕も上着くらい持ってくればよかった。あとから出てきたはマフラー、コートにブーツと冷気が入り込む隙間もない、完全防寒な姿だった。恨めしい。
「おばさんどこのスーパー使ってるか知ってる?」
「全然」
「うわー……」
「なんだよ」
「いや、いいよ。じゃあ適当に近いとこ行くよ」
「あっそ」
「………………物知らず」
「………………そうだなぁ。お前が男に貢いで一文無しになってホームレスになりかけてたなんて知らなかったなぁあ」
ガンを飛ばしてこちらを凄んでくるは、しかし何も言わずに口に漢方薬でも放り込まれたような顔で押し黙った。別に僕はいいけど、正論だろうが事実だろうがここで言い返さないとお前一生このネタでいじられるぞ。
「……」
後悔するなら最初から関わろうとしなければよかったのに。
今までみたいに他人の振りしてこっそり生きていけばよかったのに、最後の最後で諦めきれないからしっぺ返しを食らうことになる。
まあ。
こいつがどうなろうとどうでもいいし、僕には関係ないことだけど。
「なんで絹ごしなんだよ。崩れるだろ」
「別に好みとか聞いてないです」
「いや聞けよ。それうちの家の買い物なんだから」
「えー、じゃあそれ何人分の好み?」
「全員だよ! なんでそんな信用してないの!?」
「あっ、奥の方が賞味期限長いだろ」
「どうせすぐ開けてパカパカ消費するんだから前のでいいだろ。お店の人の迷惑」
「……お前さっきから一番安いのばっか選んでない?」
「なんで? 最安値で大容量、一番いい言葉だよ。業務用スーバーでも行けばよかったか……」
「だからって、さすがに三割引のとかは避けてよ。それ明日か明後日くらいに食べきらないといけないやつじゃん」
「じゃあその手に持ったスナック菓子戻してきてくれる? おばさんにそんな物は頼まれてないんだけど!?」
「だって棚にもうなかったし。いいじゃんついでに!」
……まさか、大人になってからもこいつと喧嘩するとは思ってもみなかった。
「おも……」
「いや、わかってたよね。行く前から明白だったよね!? 嫌なら来んなこの小姑!」
「小姑じゃないよ、僕男」
「んなことわかっとるわ!! いちいちツッコむところが細けぇな!」
「お前はいちいちうるさいよ。大体、お前が次から次へと量増やしていくからこんな目に遭ってんだろ」
「そっちがいちいち「こんなんすぐなくなる」とか、「八人家族舐めてんの」とか煽るからだろ!? 自縄自縛じゃん!!」
「……まぁ買える時に一気に買っといた方が手間省けるでしょ。母さんも苦労しないし」
「口だけ正論言いやがって! この偽善者!!」
「よく喋るな。主役狙ってんの」
「なに言ってんだ。喋っても主役になれなかったチョロ松の癖に」
「ああ、僕がチョロ松だってわかってるんだ?」
「え? そりゃあ、緑着てるから……」
緑かぁ……。
「え、チョロ松、だよね……?」
まぁ、緑ですけど。
「手貸して」
「なんで」
「いいから」
不信な顔で動こうとしないから荷物を取り上げて手を繋ぐ。移し替えた右手にビニール袋の紐がずっしりと食い込む。めちゃくちゃ重い。馬鹿みたいだ。
「お前自分の財布持ってる?」
「? 持ってるけど」
「カードは?」
「……貸さないぞ」
「違うわバカ」
横断歩道を渡って左に曲がり公園の前を横切っていく。小さな工場や民家の前を通り過ぎて、馴染みのパチンコ屋にも寄らずに真っ直ぐ歩いていくと大きな道に出る。そこに出たら角を曲がって、そのまま歩いて行けば踏切が見えてくる。
片一車線の小さな線路。
その踏切を越えたら、こいつの職場の近くの商店街だ。
「」
僕はここで振り返る。
は口を開けた間抜けな顔で僕を見ていた。
「お前もう帰れ」
腕の重みともこれでおさらばだ。
「もう十分だろ。傷も十分癒えただろ」
ここが本当に職場に近いのかは知らない。僕の知ったことじゃない。
「いつまでうちにいるつもりだ」
なにもかも、僕には関係ないことだ。
繋いでいた手を放す。空いた左手での背中を押す。
強制的に動かされた足が線路の中に入っていく。
「おそ松兄さんも言ってただろ。顔も性別も違うのに、一緒になれる訳がないって」
は何も答えない。
「どんなに同じところに暮らしていたって、どんなに時間をかけたって、お前は父さんと母さんの子供にも、僕たちの仲間にもなれたりしないんだよ」
踏切を越えたので僕は来た道を戻る。警報が鳴り始めたので早めに引き返さなければならない。でも、大して音量を上げずに話し続けた。人間、自分に関する話題は雑踏の中でも聞き取れるってなにかで見たから。
鳴り響く警報の音がうるさい。
振り返ったは相変わらずの間抜け面をしていた。
「お前は、僕らとおんなじにはなれないよ」
取り上げた分と会わせて四つ分も持って帰ることになった袋をシンクに置く。
買い過ぎた。
あまりにも重くて両手がずっと死んでいて、帰りに何か寄り道をしようという気にもならなかった。
「ご苦労さま」
柔和な顔つきの策士が大量の買い物袋に目を細める。
自分一人で買いに行くより多くの量が片付いて、さぞご満悦なことだろう。
「あら、ちゃんは?」
「自分の家に帰ったよ」
「家?」
「うん、本当はずっと前に見つかってたんだって。荷物はまた今度取りにくるって」
「そう、残念ねぇ」
口ではそう嘯きながらも、母さんはテキパキ袋の中身を仕分けていく。
「これでまた可愛い孫の顔が遠退いたわ」
「孫って……」
さすがに節操なさ過ぎる。もうちょっと可愛い義娘が欲しいと思わないのか。そこまで切迫していたのか。恐ろしい……。
母の四の五の言ってられない空気に少し闇が見えてしまった。
僕の引いた態度も意に介さず、母は次いで爆弾を投下する。
「だってあんた好きだったでしょ。ちゃんのこと」
「…………」
「はい、これ冷蔵庫」
固まる僕に母さんは卵を押し付ける。これはまだしばらくパシられるな。下手したら今日一日潰されるかもしれない。
策士が仕組んだ笊に気付かず、のこのこ台所に来てしまったことを後悔しながら冷蔵庫の蓋を開ける。
豆腐を入れたところで棚の奥に名前が書かれたビニール袋が入っていることに気がついた。言われた通り鶏肉を引き出しにしまってから袋を取り出す。中身を覗いて思わず頭が痛くなった。
「好きならちょうどよかったじゃない。あんたたち選り好みできるほど上位の人間じゃないのよ」
「いいよそんなの……」
袋の中には期間限定のチューハイが入っていた。
真ん中は不便だ。
一番に貰えることもなく、「お兄ちゃんだから」下のように甘えきることもできない。
長男のようになにもかも掴めそうな力もなく、末弟のように一人抜け駆けて特別な関係になることもできない。
我らが従妹は今も昔も自分たち六つ子の区別がついてない、と馬鹿な長男は思っているが、本当は少し違う。
正しくはあいつは誰を見ても「おそ松」としか思っていなかった。他の五人の松のことなど、それこそ誰が誰でも同じだった。僕が何松でも関係ない。
自分の従兄で。天敵で。
それさえわかれば群衆の名前など一つでいい。他の名前など覚える必要もない。
そうだ。小さい頃、兄弟みんなであいつにたくさん嫌がらせをした。だから嫌われてもしょうがないと思う。
でも、僕は「おそ松」じゃないのに。
僕たちは大体いつも、二人一緒にいたのに。
おそ松兄さんの隣に確かに僕もいたはずなのに。
僕だって、兄さんと同じくらいあいつと関わったはずなのに。
「いいよ、僕には。もったいない人だから」
おそ松兄さんは僕たちの主軸だった。
それはあいつにとってもそうだった。
誰でも同じ。だって、誰が何をやってもどう思っていても、最後は全部おそ松兄さんに返ってくるんだから。
僕はあの馬鹿のせいで、この兄弟の中でさえ、勝ち上がれる気が全然しない。
だからなぁ頼むよ。誰のものにもならないで。せめて他人のままでいてくれ。
そのまま外の人間に戻って、僕たちの中から出ていって、俺の知らない誰かと幸せになってくれ。
我が家にいた他人と、僕は何にもなりたくなかった。