私は今、他人の家にいる。
東京都赤塚区。駅から遠く。日当たりイマイチ。木造住宅二階建て。
母の兄である松野松造さんとその奥さん松代さんのローンがたっぷり残ったマイホーム。私の従兄、忌まわしき六つ子の住処。うちの親戚、松野家だ。
数ヶ月前までこの家にお世話になっていた私は先月突然、三男のチョロ松に追い出された。
それは別にいいのだが、新居に引っ越してからしばらく経って、松野家にある物を忘れていたことを思い出した。
ほとんどの荷物はおばさんを通じて返してもらっていた。衣服に貴重品、充電器。ただ、そのノートは押し入れの荷物と荷物の間の奥。その隙間に忍び込ませるように立てていたから、そんな場所をおばさんがわざわざ探すはずもない。だからこれは私の落ち度だ。
そんな訳で私は今、松野家の前にいる。
仕事上がりの夕方、六つ子たちのいない時間を狙って家に来てみたが、二階どころか玄関の外灯すら点いていない。どうやら皆出かけているみたいだ。
チャイムを鳴らしても反応がないのでしばらく迷ってから裏口から入ることにした。
入口から右に曲がり奥に進むと、台所の勝手口へと続く細い道がある。
昔と違い、隣は不動産ビルの壁に挟まれ生い茂りまくった枝葉の影で日が全く当たらない狭い道を体を横にして進むと、ほとんど錆びかけのドアがあった。ガタガタと動きの鈍いドアノブを何度か触っていると、やがて大きく右に回った。
記憶の通り鍵はかかっていなかったみたいだ。やっていることがまるっきり泥棒だが必要な物以外取りませんので。用が済んだらさっさと出ていきますんで。……多分これ、泥棒も言う常套句だな…………。
まあそれはともかく。
扉を開ける前に一度、脳内で合掌をする。
神さま松造さま松代さま、不出来な姪をどうかお許しください。
借りていた部屋はすっかり物置としての様相をなしていた。
どこにここまでの荷物を押し込めていたのだろう。手狭な部屋に体育館の舞台袖のように大小様々な物に埋め尽くされている。これだけの量をどこかに押し遣らせていた事実と彼らに窮屈さを強いていた申し訳なさに改めて胃が痛くなってくる。ただ、これは探すのも骨が折れそうだ……。
連勤徹夜明けの体を鼓舞して足を動かし目的の押入れを目指す。右の戸を開けたかったのだが、その前を冷蔵庫並みの高さのなにかよくわからないダンボールが塞いでいる。少し押してみてもビクともしない。仕方なく反対側の左の取っ手に手をかけた。
中が詰まっているのか滑りが悪く、両手に体重をかけないと引けなかった。
ようやく開いた押入れは、部屋の中より乱雑に物が詰め込まれていた。布団の隙間に無理くり服を突っ込んでいる。人参詰め放題、いくら入れても袋に入ってさえいれば九十九円!って感じにみっちりしている。
とりあえず下の段にあった布団の上の衣服や枕、猫のぬいぐるみ、雑誌、野球バット、その他諸々を取り出して隣の押し入れを覗き込む。右の方も同様の密集具合だった。もう面倒臭いのでそのまま腕を突っ込む。確かトランクと衣装ケースの間に差し込んだのだが……、指先にそんな固い物が当たる感触はない。うわ、顔に誰かの服が当たった。これ畳まれてねぇ、皺くちゃだ。きったねぇ。というか何でここ、こんなにぐちゃぐちゃなんだろう。まるで別のとこから出してきた物をここにそのまま放り込んだみたいだ。あ、多分これ衣装ケースだ。ということはこれのすぐ傍に……。しかしプラスチックの縁を辿っていってもノートの背表紙に当たる感触はない。配置が変わったんだろうか? でも横にある皮の質感はトランクだ。もう少し手を伸ばすために乗り上げた体が布団に柔らかく沈む。布団ふかふかで気持ちいいなー。昨日も仕事遅かったもんなぁ、早く帰れたの五日ぶりだし。この匂い落ち着くなぁ。おばさん何の洗剤使ってるんだろ……。…………いけない、ちょっと寝ていた。さっさと見つけて帰ら
「あ、起きた?」
ない、と………………。
「!?」
押入れから顔を出そうとして頭をぶつけた。
「だいじょーぶ?」
「ななななんでこここ……!?」
「なんでって、ここ俺の家だもん」
お前相当混乱してるね、と六つ子の誰かが笑う。誰だこいつ。
「いやまあ、財布忘れたから取りに来たの。そしたらなんか人の気配がするからさ、泥棒? って思って」
んなもん、いくらも入ってない癖に! 戻ってくるな馬鹿やろう!!
「お前こそ、そんなとこに頭突っ込んでどったの? 大丈夫? 社会人大変だね」
社会人にそんなところで同情するな。しかし本当にこいつ誰だろう。背格好から六つ子の誰かなのはわかるが、肝心のパーカーが部屋が薄暗くて何色なのか自信が持てない。
「あ、もしかしてこれ探してたの?」
「!! 〜〜〜〜〜〜っ!!」
また天井に頭をぶつけた。これ絶対こぶになってる。「とりあえず頭出したら?」私が押入れからそろそろと頭を出すとそいつも隣にしゃがみ込む。
奴が持っていたのは探していた家計簿のノートだった。ご丁寧に中に挟んでいた写真まで取り出してある。
「いや〜、こないだアルバム取り出した時に見っけてさ、中から男の子の写真が出てきたから「誰がショタコンなのか」って皆で軽く騒ぎになったんだよ」
「……」
「この写真やっばいよね。この子中高生くらいだし、寝顔だし。ってことは隠し撮りでしょ? チョロ松なんか「ホモでもいい! でもショタはやめろー! 犯罪になる!!」って騒いでさー。自分も似たような歳のアイドル好きな癖にね」
男はけらけら笑いながらへらへらと話す。飲み場のネタみたいに軽ーい調子でぽんぽん落とされる爆弾に身が粉になりそうだ。
「お前年下が好きなの?」
さっきまで誰でも良さそうな感じで話していた癖に急にこっちを見据えて聞いてくる。
なんかもう死にたい。
違うけど。本当は違うんだけど、あらぬ誤解を招く言い逃れのできない物証がその手に握られている。だから見つかる前に回収しておきたかったのに。
「幼い方が好み? おねーちゃんって呼ばれたい側?」
ほら見ろ。何を言おうとしても最初からその体で話してくるじゃないか。
「別にそんな気にしないよー。お兄ちゃんお前がショタだろーが、この歳でヨダレ出そーが」
「よだれ?」
「うん、ついてる」
指差した先にはさっきまで枕にしていた衣服があり、その胸元にシミの黒い影とぬらりと反射の光が見える。慌てて汚れた部分を隠すように胸に抱えた。
「洗って返すから」
「ほんといいのに。そのまま置いときなよ」
「やだよ、汚いじゃん」
「気にし過ぎだって。シコ松なんてこないだ俺のエロ本でオナニーしてたのに許したんだよー。俺、偉くない?」
「なんでいきなりお前らの下事情話しだしてんの!? そんなもんどうでもいいわ! 聞かせんなバカ! アホ! マヌケ!!」
「え? だって兄弟じゃん。赤の他人じゃさすがに俺も嫌だよー」
「兄弟でも嫌だよ!! 気が狂ってるよ!!」
「だって俺長男だし。許さなきゃ駄目でしょ」
「お前は長男にどんな重責を置いてるんだ!? 自我はないのか!?」
こいつおそ松だったのか! 一番会いたくなかった奴だ!!
おそ松は照れたように頬を掻いて笑っている。褒めてない。褒めてないぞ。
「だからさ、そのぉ……」
「?」
「も兄弟になったら許してやるって。犯罪者になっても気にしない」
ほつれるような、あどけない笑みで言われた。
「いやいやいや話が見えない」
「お前ずっと俺たちの中に入りたがってただろ? だから入れてやるって、七人目」
「……昔ほど入りたくない」
「えぇ!? そうなの!?」
そうだよ。
そっかぁ、とおそ松はわかりやすく肩を落とす。未だにそう思われていたなんてなんだかちょっと面映い。気恥ずかしさから肌がちくちくする。こいつの時代は、子供の頃で止まってるんじゃないだろうか。
「とにかく。また洗って返しに来るから。これ貸して」
汚れた面を隠すように胸に抱えていたパーカーを折り畳む。頬杖をついたおそ松は「えー」と不満そうな声を漏らす。
「俺それ以外着るもんないんだけどー。明日裸? 鬼だねー」
嘘吐けーーーーーー!! 他にも服持ってんだろ!? さすがにそれは知ってるぞ!?
「明日はそれの気分なんですー」
「じゃあ今日の夜持ってくる」
「もういいじゃん。泊まってけば?」
「嫌だ! 家に帰る!!」
あとその子は一時的に保護しただけだし、写真は学校とかに問い合わせしようと思っての物だ。やましい感情は一切ないし私はショタコンじゃない!! とついでに指を突きつけて言ったら「うわぁー……、マジっぽい」と引かれた。ちょっと心が折れそうだった。
「……贅沢は敵みたいなレベルで言うね。ちょっとくらい甘えてもいいんじゃない?」
「お前は少しは許すな。よだれは汚いし、おばさんが洗うの面倒だろ。というか家事を手伝え、職に就け。自分のことは自分でしろ」
言うつもりはなかったのについつい口が滑らかに動いてしまった。おそ松は両手で耳を塞いで拒否を示す。こちらの説教が終わった様子を察して、つむっていた目を片方だけ開き横目で窺うように口を開く。
「というかなんで家出てったの? ずっとここにいてもよかったのに」
「……」
多分、お前がそんなだからだよ、おそ松。
あの日、チョロ松が追い出したことに突然だった不満はあれど、根本的には異議はないのだ。あれは、多分、彼なりの気遣いで。松野家の子供たちは皆無職で、性格だって別段そんなよくはなくて、その中で長男になっているこの男はそれを何も否定しない。
おそらく、さっき本人が言った通り私が未成年に手を出すクソ野郎になったとしてもこの男は受け入れるのだろう。志向も思想も宗教も関係なく、彼は全てを受け入れる。彼自身、意思も思考も信念もないかのように。
幼い頃に受けた仕打ちから何がここまで気を変える所以になったのかは知らないが、こいつの身内認定を受けちゃ駄目だ。
あらゆる肯定の先に繋がっているのは、きっと腐敗だ。
ここにいては駄目になる。
ここ以外で生きれなくなる。
「ってツイッターで言ってた」
「ツイッターかよ!!」
「人を駄目にする方法は相手を否定するんじゃなくて、何をやらかしても「あなたは正しい」「それでいい」って肯定していくんだ、って」
「はぁ……」
呆れたおそ松はついていた頬杖の腕を入れ替えながら胡乱げな目でこちらを見てくる。
「えー。ネットの情報でー? それお前の意思なのー? 流されたんじゃなくて? 適当だなー」
「……」
それを言われると少し耳が痛い。
「第一、俺がそれで肯定したとしても、悪いのはそれを自分で考えずにそのまま受け入れるそいつの意思の弱さなんじゃないの? 俺悪くなくない?」
あ、そこを問題と思う思考回路はちゃんとあるんですね。
「でも、兄弟になったら気にしない」
そう笑う顔があまりに朗らかで。
「お兄ちゃんがぜぇーんぶ、「いい」って言ってやるよ」
思わず全身が総毛立った。
「いい! お断りします!!」
「えー? なんでー? 何も考えない。余計なことで悩む必要なんてないくらいずっと甘やかしてやるよー? それじゃ不満?」
「不満とか不満じゃないとか以前に触りたくない! お前恐い!!」
「なんだよそれ〜、ひっでーの」
不貞腐れたかのように口を尖らせる男からできるだけ距離を取る。できれば背中のダンボールに壁になってもらいたいくらいだ。誰でもいいから早く帰ってきて欲しい。もうやだ。こいつと二人でいたくない。
「大体、なにがお兄ちゃんだ。同い年の癖してアホらしい。それで好きで長男に生まれたんじゃないとか自分でぐずってりゃ世話ないな」
「……お前はほんと、無責任に俺たちをぶち壊しにくるね〜」
「責任ってなに? 最後に家だけタダで貰おうとする程度の? たった数秒か数分先に生まれただけでガキ大将かまして偉そーに。勝手に自分のポジション決めて勝手に首絞めて。馬鹿じゃないの」
「ああもうそういうところ」
そして染み付いて取れなくなった兄の顔で他人を見てくるのだから本当に腹立たしい。
「俺はお前が羨ましいよ。俺も一人っ子がよかった」
「うちは一人っ子じゃない」
「そっか、禁句だと思ってた。でも似たようなもんじゃん」
「帰る」
立ち上がって横を通り過ぎようとした時に左手を掴まれる。
「もう帰っちゃうの?」
そんなに強い力では掴まれてない。振りほどけば取れそうな弱さだ。
「俺、そんなにだめ……?」
結構頑張ってるんだけどな、と聞かせているのか独り言なのかよくわからない調子でおそ松は続ける。
「でもさ、一松とか肯定してやんないとさ。あいつ居場所がないよ」
そんなの知るかよ。それはあいつ自身がどうにかすべき問題だし、お前が勝手に枠線を決めるな。
「いいよな。姉ちゃんに甘えて、頼って、妹にぴいぴい言われてさ。俺もお前んちの子になりたかった」
────お前が。
喉のさらに奥から迫り上がってきた恨みのような感情は、それでも明確に言葉になることはなかった。
お前がそれを、お前が、そんなだから。
なにもさせない癖に、なんにも許してなんかいない癖に。
群集になって。塊になって。一人一人なんかどうでもよくなって。
何度も何度も追ったって、一度だって入ることもできなかったのに。
じゃあ、それじゃあ。それじゃあどうやって。
どうやって君を探せばいいの。
群衆にまぎれて、輪郭も形もあいまいになって、君の何を見つければ君になるの。
追いかけても掴めなかった。触れることすらできなかった。ずっと届かなかった諦めを最近ようやく飼い馴らすことができたのに。
お前がそれを言うのか。
嘘吐き。適当。無責任。
もうなにも信用しない。おそ松の言うことは信じない。
だから、ただ。
ただ。
今は君たちをぶち壊したいのに。
「……そんなこと言って、欲しい物だけ取って結局自分の家に帰りそうだけど?」
「へへ」
「というか、昔にまんまそんなことしてただろ」
「まぁね。放っておけないでしょ。やっぱ俺、長男だし」
そう顔を崩すおそ松はほんのちょっぴり、本当に誇らしそうだ。
「でも、いつかは一人になるだろ。皆出て行く」
「そりゃお前が家引き取るって言ってるからだろ。嫌なら継ぐのやめたら?」
「ひとりは寂しい」
寂しさを紛らわすように指を握る力が強くなる。
「……」
なに言ってんだこいつ。
信用ならない。過剰な杞憂なんじゃないだろうか? どこをどう見たらそんな妄言が出てくるんだろう。抜けたがっているトド松ですらああなのに。
他所の他人から見たって、そんな未来は想像できない。
昔どんなに思い描いても入れなかった。加わることができなかった。何度も何度も追った背中。
なのに、絡む指先が不安そうに縋るから。
「まぁ、本当に一人になったら考えるよ」
嘘を吐いた。
口から出任せ。一時の気の迷い。いつものように手慰みに思ってもない適当を口にする。
どうせ、そんな未来は訪れない。
「ん、じゃあ予約な」
なにが────おそ松が少しだけ持ち上げる。
掴んでいたのは、────────左手の薬指だ。
「──────!!」
いやいやいや、無理無理無理。無理、駄目、無理だから。すいませんごめんなさい許してください。
「結婚したらお前ん家の子になれるかな〜」
「その場合なるのは兄じゃなくて夫婦だけど!? 大分違うけど!?」
「えー、兄弟も夫婦も似たようなもんだろー。家族なんだし。ディープキスしたり、セッピーーーしたり」
「しねぇよ、なに言ってんのー!?」
玄関の明かりが灯る。遠くでガラガラと戸の開く音がする。
ほら、こいつの家族が帰ってくる。