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 寂しかった、悲しかった、誰でもよかった。
 こっちを見るその瞳が欲しかった。



 至る所にちらばるネオンが俺たちを照らし出すその夜、街から出てきたターゲットを指で撃ち抜くと、とても渋い顔をされた。
「わかるぜ、エスプレッソは苦いもんな。だがそれをあえて濃いめで頼み、濃縮された旨味を楽しむのが大人のたしな」
「これはキャラメルマキアートだよ」
「わぶ」
 押し付けられたカップからはスチームされたミルクとシロップが優しく香る。口に広がるほどよい温度とめったに飲まない柔らかい甘みに、火傷をするかと怯えていた緊張がするするとほどけていった。
「ありがとう、うまかった」
 カップを返し、店から背を向けるように歩き出すと、隣のは怪訝そうに首を傾げる。
「買わないの?」
「違うぜ。お前を待ってたからな」
「なんで?」
「フッ……」
 視線がこちらに注がれるのを感じながら、俺はサングラスを取り外す。目と目で見つめ合い、くの字に曲がった蔓を彼女の鼻先に突きつけて言った。
「お前が死なないように見張りに来た」
「は?」
「(決まった)」
 俺が余韻に浸っているのとは裏腹に、肝心のはなんとも訝しげな目でこちらを見ている。いいだろう! 今からその瞳、変えてみせるぜ!!
「俺がやりたいから勝手にやっているだけだ。礼は不要さ、レイディ?」
「迷惑だよ」
「え? あれ?」
 予想に反した展開に思わず外していたサングラスを掛け直す。宵闇に包まれ暗くなったフレーム越しでも、捉えた背中は小さく小さく遠ざかる。
 段々見えなくなっていく背中を慌てて追いかけ、袖口の端をそっと引っ張る。
「だ、駄目か……?」
「何しに来たの?」
 ちくちくと刺すように刺があるの声は本当に迷惑そうだ。
 俺は気まずさから顔を横に逸らして、ブリッジを上げ直しながら言葉を紡ぐ。
「……迷える子羊を導こうと」
「へぇ、大変だね」
「悩める者に手を差し伸べるのは俺の使命。愛の女神もそれを望んでいるはずだ」
「ふーん、信心深いんだね」
「さぁ、その幾層にも重なって固くなった殻を打ち破り、お前の苦しみをこの俺に打ち明けてくれ!」
「あ、これ私が対象だったんだ。え? マジで?」
 いつもの無表情に戻ったは手に持ったキャラメルマキアートを一口飲んでうーんと唸る。ちなみにさっき俺に押し付けた蓋の部分はちゃっかり取り外されていた。い、意外と括るな……。
「悩みなんて別にないよ」
「ノンノン、嘘はいけないな子猫ちゃん」
「あんたらには嘘と隠し事しかしてないよ」
「一松に言ってただろう?」
「あー」

『生きているのは地獄だ。さっさと死んでしまいたい』

 闇の中からぼんやりと明かりが漏れる。かすれていながらもどこか愛嬌のある不思議な声。
 深夜三時。猫の声が告げていた。人の本音を読み取る猫。デカパン博士の注射針から身を呈して守った一松のともだち。俺のいない間に起こった、俺の知らない出来事。
 その薬がまだ残っていた猫が、の言葉の後、確かにそう言っていた。
「命を粗末にしちゃあいけなぁい!!」
「そりゃそうだね」
「だから俺はお前に言おう! お前が一人孤独な夜に突然身を投げ出したりしないよう共に寄り添い常に見守っていると!!」
「酷い言われようだ」
 肩を掴んだ手をやんわり外すよう促しながら、は疑問を口にする。
「……なんで夜だけ?」
「眠るにはいい朝だと思わないか?」
「踏みつぶしたいなその寝顔」
「職に就かない我が人生セラヴィ!!」
「くたばればいいのに」
 やさぐれたは不穏な顔で「昼に死んでやろうか」と呟く。
「よしてくれ! 天国には迎えに行けない!!」
「夜なら死んでもいいみたいな話になってきてない?」
「その時は俺が引き止める。だから夕方まで頑張って生き延びてくれ」
「はあ……」
 常時の目に戻ったは頭を掻きながら「なんというか、暇なんだね」とぐさりと核心を突いてくる。
「大丈夫なんだけどなぁ」
「だが、本気なんだろう?」
「もうちょっとお気楽に生きてなかったら、誰でも一度は思うことだよ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
「そうか……いや、だが……」
 未だ口を開き何かを言い淀む俺を、はいつもの平坦な目で見上げてくる。
 愛想はない。だが怒りもない。嫌悪もない。俺がおでんのおかわりを頼んだ時と同じ目だ.
 それを見て曇っていた心に一筋の光が射し込んだ。
 は怒らない。罵らない。無視をしない。
「まぁ、気の済むまでしたらいいんじゃない?」
「……ああ!!」
 拒絶をしない。
 優しい、人間だ。
「じゃあ手を繋ごうか、
「え、嫌」
「え、あれ……?」
 無下もなく断られてしまった。全く、とんだシャイガールだぜ。


「そういえば、明日はどこで待ってればいい?」
「どこって?」
「待ち合わせ場所を決めよう」
 言葉を噛み砕いて言い直してもはまだ理解しきれていないように首を捻っている。
 の家は二階建ての小さなアパートだった。建物の外に付いた階段は簡素な造りで、慎重に歩かないと足下からかなり高い音が鳴ってしまう。手摺りも錆び付いているようだし全体もなんというか古臭い。マイハウスも結構な年代物だが、年若い女性がこんな場所に暮らしていて大丈夫なのだろうか。
「なにか勘違いしているようだが、今夜俺たちが出会えたのは偶然という名のディステニー。運命の女神に二人が導かれたからだぜ」
「あ、そうなの」
 納得したは顎に手を当てどうしたものか考えている。
「んー、じゃあ今日のスタバァの前で待ってて」
「近いのか?」
「あー、まぁ」
「職場まで直接行ってもいいぞ?」
「いいよまだ寒いし。店ん中入って待ってなさい」
「……えっと」
「なに?」
「それだと、俺のバストマネーが…………ちょっと」
「懐のつもりか?」
 ものすごく顔をしかめたは、斜め下を睨んで砂利を磨り潰すような声で「奢るから……」と言った。
 おお、あの守銭奴がここまでしてくれるなんて……。だが従妹の気遣いを素直に喜ぶべきか、唾でも吐きかけられそうな表情にブロークンすべきか、俺の心は複雑だった。
 なにはともあれ次の約束を取り次げた。これで明日からもを家まで送ってやれる。それはを救う未来に繋がる足掛かりだった。



「家はこっちだぞ?」
 広い道に出たところで右に曲がろうとしたの腕を掴んだ。の家は反対側だ。
 引き止められたは一瞬苛立ちを覗かせたが、すぐに理由に思い当たって「スーパー」と言った。
「冷蔵庫、もう空だから……」
 時刻はシンデレラの魔法が解ける少し前。住宅地に近い町では車通りも少なく、オレンジ色の外灯が均等に立ち並んでいる。その下で暗さに紛れたり姿を現せたりを繰り返しているの歩みは、船を漕ぐようにゆっくりだ。
「大丈夫か?」
「だいじょうぶ……」
「何を買うんだ?」
「米と、なんかおかずと、バターとか……」
 眠そうにぽつりぽつりと話すは、ふと横の俺を見上げて「にもつもち……」と呟くので聞こえない振りをした。
「ああ、ねー。おいしいよね、ウェルダンとかねー」
「……」
 何も答えてないんだが、何が聞こえたんだろう……。
 ともあれ、は背を丸めて正面に向き直る。よかった。すまないな、俺の仕事はお前を無事に家に送り届けることだけだし、十二時近くまで待っていて俺も疲れたんだ。余計な労力は使いたくない。
 サングラスをずらして隣のを覗き見る。
 どうやら相当疲れているらしい。足取りがいつもよりおぼつかないし、さっきの会話も支離滅裂だった。(というかが一人で話して一人で返していた)
 意識は朦朧としていないだろうか。このまま道に飛び出てあのトラックに轢かれたりしないだろうか。これは気を引き締めて見張っていないと……、と気を入れ直していると突然俺の方が大きく後ろに傾いた。
「おわぁ!?」
 頭が大きくぶれて転んでしまうかと思った。ぐるっと回りかけた視界に混乱しながら力の出所、引っ張られた腕の方に振り返ると、が俺の手首を思いっきり引き掴んでいた。
「電柱」
 そう言われて視線を戻すと、目の前にコンクリートの柱が突っ立っていた。
「……サンキュー、助かったぜ」
「ん」
 かけていたサングラスを胸に戻して礼を伝えると、は手をパッと放して歩いていく。その後ろ姿を眺めた後、俺は自分の掌を見て結んで開いてを繰り返す。
 小さな手だった。俺の手首に回りきらないくらい。俺は二の腕を掴んで指先と指先が届きそうなくらいだったのに。
「なぁ、やっぱり手を繋がないか」
「やだよ」

 美しいさしの入った霜降りが立ち並ぶ棚を見て、思わず口の中に唾液が溜まる。
「今日のディナーは何にするんだ?」
「どうしよう、照り焼き、生姜焼き。筑前煮にでもして……面倒臭いな。いっそお茶漬け、鮭…………もうフレークでいいか」
「どんどんクオリティが下がってるぞシスター!!」
「どんなに見ててもそんなに高い肉は買わないよ」
「う」
 俺が見ているのは隣の牛肉コーナー(しかも和牛だ)で、少し遠くのが棚に戻そうとしていたのはかなり安い鶏胸肉だった。静かな店内に広がるの胡乱げな目が痛い。
「ほ、ほら、チキンなら唐揚げとかはどうだ? ジューシーでおいしいぞ」
「面倒臭い。それならコンビニで食べるよ」
「面倒なのか……」
「油固めるにもどうしたらいいかわからないし、それだけの油を一回で捨てるのももったいないし……。…………」
「…………」
 顔に溜まる羞恥から口の端が嫌な感じに吊り上がる。
 人気のないスーバーでは腹の虫がとてもよく響いた。さっきまでうんうんと唸っていたの顔は眉間に皺を寄せたままだったが、今ではその目に微妙な憐れみも含まれている気がする。恥ずかしい。とても恥ずかしい。
、君の手製の愛情をこのカラ松にも分けてくれないか?」
 開き直ってちゃんと目を合わせて言ったのに、は思いっきり背を向けて去っていった。

「……」

「……」
 早足でなかなかこちらを見ないの袖口をそっとつまむ。
「唐揚げ食べたい」
「晩ご飯食べたんでしょ」
「荷物持つから」
「太るよ」
「それはこの時間から食べるお前も同じなんじゃぁ、なっ、いかぁ!? 重いっ!!」
 渡されたカゴの中に大きな米袋を落とされて肉が食い込む。落とさないよう胸を張って持ち上げるが、血の巡りが遮られ段々腕が痺れてくる。
「あぁ! どこに行くんだ!? 待って! ウェイト!!」
 身軽になったは俺を置いて、そのままどこかへ行ってしまう。
 離れていく背中に手を伸ばすこともできず、そのまま店に置き去りにされるかと思った……が、意外と早く戻って来たは手の中に持っていた物を米袋の上にポイッと置く。
「鶏肉」
「もも肉だね」
「信じてたぜ、俺の女神」
「作らないよ」
「否定しなくてもいい。お前が素直じゃないのは口だけだってこと、俺は知ってるからな」
 ほかほかの湯気を立て皿いっぱいに乗っけられた肉の姿を想像する。そのイメージを励みに下がっていた腕に力を入れて上げ直す。取っ手と指の間からわずかに見える掌は薄い桃色から更にビビットなピンクへと変貌していたが、もうこの痛みも辛くない。
 成果を得るために苦難の道を進む。これもまた、戦士の宿命さ。



「いただきます」
「……」
 食卓に出されたのは茶碗一杯の鮭茶漬けだった。
「…………からあげ」
「夜に食べると太るからねぇ」
 そ知らぬ顔で鮭をほぐすは上から少量の醤油を垂らして、あらかじめ作っていた薄い煎茶を注ぐ。茶碗にそのまま乗せられた切り身はほどよい焼き色をしており、下から覗く白米からはイメージしていた白い湯気が上がっている。
「これでお前の空腹は満たされるのか?」
「あと寝るだけだしいらないでしょ。物足りないなら帰りにラーメンでも買えば?」
「鶏肉は……?」
「小分けにして冷凍した」
「ホワッツ!?」
 あの苦しい帰り道はなんだったんだ!?
 レディに体重の話をしたのはまずかったかもしれないが、そもそも振ってきたのはの方だ。それなのにこの仕打ちはあんまりだ。もはやイジメだ。酷い。醜い。えげつない。いっそ涙が出てくる。ちょっと殺したい。
「ふっ……、あまりにも意地が悪過ぎるぞぉ兄妹?」
「そんなこと言ったってもう作り終わっちゃったし。食べないの?」
 俺の殺意に気付かないは不可解なものでも見るかのように三つ葉とゴマを渡してくる。お茶漬けの上にそえると彩りが増えた。
「食べないなら明日の朝ご飯にするけど」
「……」
 下からは、さっきから塩気と米の混ざった匂いが鼻をくすぐっている。
 照りのある紅い鮭。
 つやつやの白ご飯。
 三色のアクセント。
「……いただきます」
「そこで受け入れちゃうところがカラ松だよなぁ」
「作ってもらったものは食べなければ失礼だろう?」
「そうですか」
「ちなみに脂肪の元になるのはタンパク質でなく炭水化物だ。穀物だ。つまりは米だ。あと鮭も赤身じゃないからどちらかというとアウトだ。つまり、お前はどちらにしろ太る。わかったな。絶対だ」
 今宵のおかずを肉にしなかったことを後で後悔するといい!!
 そう腹いせに昼に聞きかじった知識を言って指を突きつけたが、肝心のは少し目を見開いた後、「知ってる」と噴き出して終わった。
「なに、お前そういうのちゃんと気にするの。意外と繊細なんだね」
「違う!! 男でも大事なんだからな! この完璧なファッションを着こなすパーフェクトな体型作りは!!」
 のばか! お前なんて鮭の骨が喉に引っかかって苦しんでしまえ!!
 俺だって明日マミィに唐揚げ作ってもらうからな! 欲しいって言ってもわけてやらないからな!! ばか!!
 そう喉からこぼれそうな悔しさが口を衝いて出る前に、手元の鮭茶漬けを搔き込んだ。
 はツボに入ったみたいで、その後もしばらく腹を抱えて震えていた。



「おかえり」
「ひっ、た、ただいま……」
 家に帰ると一松が出迎えてくれた。明かりも点けず玄関に座り込んだまま、暗闇の中で半円型の目だけが猫のように浮かび上がる。
「……出迎えは嬉しいが、こんなところにずっといては風邪を引くぞブラザー。さあ、俺と一緒に安寧の地へ」
「遅かったな」
「と…………あ、あぁ」
「きょうは、ずいぶんと、おそかったな。クソ松」
「……はい」
 一松は強調するようにもう一度、ゆっくりと言った。
 質問に回答する以外の答えは許さないといった空気だ。
「今日は、の仕事が終わるのが遅かったからな」
 の家で食事をしてきたことを言うのはなんとなく憚られて適当にごまかすと、一松は興味がなさそうに「ふーん」と応える。その後何も反応がない。
 動く気配を一切なくしてしまった一松と、靴も脱がず玄関に立ち竦む俺。……なんだろう、これ。俺は上に上がってもいいんだろうか。
「で、あいつ死んだ?」
 隣の弟に刺激を与えないように音を立てずに靴を脱ぎ、そのまま横を通り過ぎようとしていた足が止まった。
 普段あんなに人から視線を逸らそうとする弟が、射貫くように俺の目を見て言う。
「死んでないよね、生きてるよね、今日も元気に社畜してたよね」
「……え?」
「当然だよねぇ、こんなゴミがのうのうと生きてるんだから。曲がり形にも社会人してる従妹様はそりゃーもっと楽に生きられるよねェ。人生イージーモードだよ」
「い、一松、言ってることの意味が……」
「見張る必要なんかないって言ってるんだ、このクソ」
 は今日も死ななかった。わかりきったことだ。俺だってもう本気で心配しなくなっていた。
 ────じゃあ、なんで迎えに行ったんだ?
「……」
「そんなもんだよ。口で死にたい死にたい言ってるだけの奴に限ってそうそう自殺なんかしない。本当に死にたかったらもうとっくに死んでる。あれはただのオナニーなんだよ」
「いち、」
「毎晩毎晩ご丁寧に送ってて、そんなこともわからなかったの? ほんと救いようのないくらい馬鹿だね」
「だ、だが、エスパーニャンコの言うことは……」
「それが、本音だとしてもだ」
 今日は初めて家に入れてもらえた。一緒にご飯を食べた。
 昔やんちゃをやらかし過ぎて、今じゃほとんど亡き者として扱われているが、それでも話しかければ無視をされない。
「もっとわかりやすく言ってやろうか。お前のやっていることは全部無駄」
 声をかければ見てくれる。話せば最後まで聞いてくれる。
「あいつはお前のことなんか必要としてないんだよ」
 廊下に白い明かりが漏れる。あの時俺たちと目が合ったは相変わらずクールだった。
 おそらく一番聞かれたくなかった本音のはずだ。だけど、あの時だって崩さなかった無表情を今日は少しだけ崩してくれたから。
 わずかに盛り上がった目尻の形が忘れられなくて。







「お待たせ」
「おかえり。凄惨な戦いに身を徒して疲れただろう? 今宵は存分に羽を伸ばしてその翼を休めてくれ。なんなら歌も歌おう」
「うわ、重そう」
 肩にかけた漆黒の棺を見てが言う。
 今日はの連勤最終日だ。つまり明日は休みだ。俺の仕事も束の間の休息を得られるってわけだ。
 なので、ちょっとばかり豪勢に、子守唄でもプレゼントしようとギターケースを担いで来ていた。
「悪いけどうち壁薄いよ」
「…………わかった。じゃあ静かなバラードにしよう」
「めげないねー」
 軽いやりとりも途切れ、二人で静寂に包まれた帰り道を歩いていく。頭の中で昨夜一松が言っていたことがちらついて、口の方まで意識が回らないせいで本当に静かだ。こんな時に限って、車の走行音もパチンコの騒音もコンビニのチャイムも一切まるで聞こえてこない。辺りを包む暗闇が貼り付くように重い。
 俺が喋らないから相槌を打たなくていいは少し前を歩いている。今日の足取りは昨日よりも幾分しっかりしているように見える。おぼろげな白い背中も急にいなくなってしまうようには見えなかった。
「なぁ
「ん?」
 俺はに問いかける。
は、──いつ死ぬんだ?」
 は皮肉げに笑った。
「なにそれ、死んで欲しいの?」
「違う! そんなことはない!!」
「どーだか」
「本当だ!! すまない、今のは言葉のセレクトが悪かった!! そうじゃなくて俺が言いたいのは……」
「うそ。意地悪だよ」
 呆れ笑いのニュアンスで言ったは「ようやく気付いたか」と意地悪そうな半眼で振り返る。
「そうだよ。どうせ死ぬ気なんてない。だから気にすることはないし、もう大分前から、カラ松は帰っていいんだよ」
 そうして微笑うには、確かに何も心配なさそうな頼もしさがあった。
 そうだ。見張りの見送りはとっくの昔に形骸化している。
 今ではただ、兄弟以外の誰かと毎日、少し同じ時間を過ごしていただけだ。
 俺は本当に、俺のしたことは本当に。
 最初から必要ないみたいだった。




 ヴィンテージアパートに辿り着くと、階下に中年の夫婦が立っていた。
 紳士の方が手元の何かを確認してこちらに頭を下げるので、俺たちもつられて会釈を返した。
 彼はこちらへ寄ってきてに話しかける。
さんですか?」
「はい」
「────の父です。こちらは家内です」
 紳士に紹介され、隣の淑女もに頭を下げる。
「息子があなたの免許証を持っていて、不躾だとは思いますが引越し先を確認させていただいて伺いました。大変、ご迷惑を、おかけいたしました」
「あ、いえ、わざわざ申し訳ありません。────くん、という名前だったのですね」
 は紳士から渡された免許証を一度、目を細めてそっと撫でる。
「本当に申し訳ありません。まさか免許証を抜き取っていたなんて……。いえ、もちろんそれ以外にも、色々とご迷惑をおかけしたと思うのですが……」
「いえ、免許証はすぐに再発行したのでそんな気になさらないでください。こちらこそご家族の方が心配していたでしょうに、連絡もせず、警察にも届け出ずすみませんでした」
「とんでもないです。むしろ面倒を見ていただいて、本当に、なんとお礼を申し上げていいのか……」
 突然話しかけられたはずのは当然のように状況を受け入れ、彼らに話を合わせていく。
 どうやら状況がわからず右往左往しているのは俺だけのようだった。
「……あの、すみません」
 割って入った俺の声に三者が三者ともこちらを見る。
 急に集まった視線に緊張した俺をが「従兄です」と補足する。名も知らぬ少年の両親と会釈を交わしてから俺はずっと疑問に思っていたことを口にする。
「失礼ですが、その、彼は……?」
 そうだ。皆当然のように話を進めているが、何故世話になった少年自身がこの場にいないのだろう。何故はそのことに触れもせず話し続けているのだろうか。
 俺の質問に少年の両親らは硬直した。紳士の顔は一瞬強張り、ご夫人の肩は跳ね上がった。は相変わらずのノーリアクションだ。
 やがて、紳士が顔を俯かせ重々しく口を開いた。
「息子は、自殺しました」
 だからこの場には来れないのだと、父親である彼は言った。

 彼らの間には少年のほかに姉となる長女がいたこと。の顔が姉に似ていたからおそらく少年は居座ったのではないかという推測。最後に改めて礼と詫びを告げられ、小さな地元土産の菓子をいただいて俺たちは別れた。
 ご両親を駅まで見送ったあとアパートへと戻る道を無言で歩く。の足取りは変わらずしっかりしていた。顔もまっすぐ前を見ている。そもそも少年の死を告げられた時、は下手をしなくとも俺よりもあの場の誰よりも動揺していなかった。
 なんの感情も外に出さず、まっすぐと歩を進めていく。
 それが、どうにも。

「なに?」
 は前を向いて歩いていく。
は死なないのか?」
「死なないよ」
「それは今だけの話か?」
「カラ松が帰っても死なない。明日も死なない。だから大丈夫だよ」
 は前を向いたままだ。
、死なないでくれ」
「死なないってば」
 はこっちを見ない。
「お前が死んだら、俺は悲しくて泣いてしまう」
「……」
 ずっと正面を向いていたの目が俺とかち合った。きっと俺は決まり損ねた恰好のつかない顔で笑っている。
「やっと、こっちを向いてくれたな」
「……誰でもいい癖に」
 無表情を貫いていたの顔が、紙を丸めた後のようにくしゃくしゃと歪んでゆく。
「誰かじゃないと駄目なのか?」
 あの少年じゃないと駄目だったのだろうか?
 彼女が選んだ人間以外、誰でも同じ。誰が誰でもみんな同じだ。
 きっと、ここにいるのは俺じゃなくてもよかった。
「お前が選んだ奴じゃないかもしれない。でも、誰かに言ってもらわないと、ずっと一人で言い聞かせていくのは寂しいじゃないか」
 お前は望んで一人になろうとするから。
、死なないでくれ。俺にはお前が必要だ」
 横を歩くの手を取って、ずっとできなかった手を繋ぐ。
「なぁ、俺が死ぬまで死なないでくれ。君に見守られて俺は死にたい」
「……」
「でもその前に、こうやって手を繋いだり昼間にも出かけたり、色んなことをしたいんだ」
 古びた階段をなるべく音を立てないように上がり、コートのポケットから部屋の鍵を拝借する。
 すっかり夜も更けてしまった。これでは演奏は明日に回すしかないだろう。
「だから頼む、俺と一緒になってくれ」
 ドアノブを回す前に振り向くと、ずっと無言だったが胸に寄りかかってくる。「……!?」背中のギターケースが当たって、開きかかっていたドアはその隙間をなくしてしまう。
「え、えっと、……! 色々したいとは言ったが急にこんな展開になるのは、あの、ちょっと……っ」
「あの子にもそうやって言えばよかった」
「え?」
「嘘でも同情でもいいから「必要だ」って言ってやればよかった」
「オーマイガッ、何故疑われてるんだ」
「そしたら、もしかしたら、死ななかったかもしれないのに」
 盛り上がった下瞼に押し上げられた涙が頬を通る。
 はもう体裁を気にしなかった。顔を崩してぼろぼろ、ぼろぼろと痛ましいほど泣き始める。
「だいじょうぶ、大丈夫。お前には俺がいるからな」
 嗚咽で震えるの背中にそっと手を回す。いつか掴んだ腕と同じ、小さな背中だった。
「ちゃんと自分で選ばないと、いつか後悔するぞこのばか」
「そんなことない」
「この嘘吐き」
 それでもさっきの告白の返事も、背中をさする手も、は明確に拒絶することはない。
 だからこれでいい。
 後悔はない。
 お前が必要としてくれるなら俺はそれで、それだけで、──きっと最期まで生きてゆけるから。


 寂しかった、悲しかった、誰でもよかった。
 俺はずっと────この瞳が欲しかった。


 月が昇った暖かな夜、俺たちは孤独をやめた。