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​ 現実ってやつが僕は嫌いだ。
 いつからかどうにも上手くいかなくなった、醜悪で窮屈で気味の悪い世界。
 バカみたいにぶ厚い善良の皮を被り、さもそれが正答だと津波のように押し付けてくる社会。その端で発狂していくゴミは無視して、最適解だけを標準として求めてくる社会。それでいてそれに合わせるとなんの努力もしてない底辺たちには馬鹿にされ、担当の奴らだってそんなのは本当の君じゃない、もっと本音で話したいとか、それすらどこかの教本からコピペしてきたような戯言を、舌の根も乾きそうにない滑らかさでほざいてくる狂った社会。
 ここは現実だから、奇跡なんて起こらない。
 ここは現実だから、誰も優しくはしてくれない。
 ここは現実だから、努力が報われるとは限らない。
 悪事を働けば制裁を受けるし、「ただ、そこにいる」だけでとりとめのない悪意に飲み込まれることだってある。
 現実ってやつが僕は大嫌いだ。
「……何やってんの、お前」
 幸せになってほしいから逃がした他人は、外で精液塗れになって倒れていた。




 なんでこんなことになったのかよく分からない。
「……  、…………っ」
 左の奥で鉤のように指を曲げると、そこが好きなのか腹の表面がわずかにへこんだ。
 浴室の薄い壁にもたれかかったは、全身を投げ出して死体のようにピクリともしない。僕も事務的に角度をかえて、中のものを掻き出すことだけをしていく。もうそれ以上届かなくなったら、その側面に指の腹を押しあてて、ゆっくり、ゆっくり、下ろしていく。隙間を作らないようにすこしだけ強く、喘がせたいわけじゃないから押しつぶさない程度に。落とさないように、漏らさないように、取りこぼさないように。もう一度、同じところを触らなくてもいいように。少しずつ、少しずつ。
 それでも下の真ん中、第一関節が埋まってるくらいのなだらかな場所に当たると、いつもすこしだけ中が締まるから、そういえばここも好きだったなぁとちょっとだけうんざりした。

 どうしてこんなふうになってしまったのか、あまりよく覚えていない。
 こいつをおぶって歩いていたときはまだ、お湯を溜めるとかそんなできた人間の真似まではできなくてもせめて、浴室に一人だけ置いていくとか、湿布でも買うとか、的外れでも献身的で誠実にあろうとする選択を考えていたはずだと思うんだけど。そもそも僕はこいつの家を知らなかったはずなんだけど。そこらへんの記憶も全て飛んでしまったみたいで。経緯もなにも思い出せない。
 僕はなにを考えていたんだろう。
 そう思っても頭はうまく働かなくて、もう一人の自分が何の感慨もなく無言で僕らを見下ろしている。
 最初に指を入れた位置から一周した。
 抜きだした指についていたのは透明な体液だけで、白い精液はあの日以外一度もついていなかった。

「やめろ、気持ちわるい」
 不意にが顔を近づけてくるので、唇に触れる前にシャワーヘッドで殴る。頭をおさえて呻いているはそのときだけ人間に戻ったみたいだ。
 いつもそうだ。
 のこりは無抵抗な癖に、最中一度だけ本気でする気もないだろうキスを迫ってきたり、勃っていないとわかっていながら下腹部に手を伸ばそうと「嫌がらせ」をしてくる。
 僕の拒絶を見た顔が細い糸越しに粘ついた目でニヤニヤと笑う。
 やわらかくゆるめた目尻に、やさしく口角を吊り上げるその顔は、自ら男を誘い込む悪女そのものだった。





「来週は出張あるから来ないでね」
「は?」
 帰り際、玄関で靴を履こうとしていたときに初めて声をかけられた。
 言動共にとつぜん振り落とされた空撃につま先が上手く入らず靴が途中でひしゃげてしまった。
「なに、お前、話せるの……?」
「話せるよ?」
「え? え? ……マジで?」
「話せなかったら仕事に支障が出るだろ?」
 はごくごく当然のことを言っているというように首をかしげている。僕は固まって動けない。
「だいたい私もいつもお前のオナニーに付き合ってあげられるほど暇じゃないんだよ」
「そりゃそうだけど……っていやいや、そうじゃなくて。というか今までそういう風に見られてたってのもすっげーーーー腹立つけどひとまず置いといて。そうじゃなくて、ちょっと待って、じゃあなんでお前、今まで一度も嫌がらなかったの!?」
 拒絶とか、嫌がるとか、嫌いとか、気持ち悪いとか、怖いとか、ほんの少しの機微でもわずかな身じろぎでもいいから出してくれれば、ちいさな音でいいから漏らしてくれたら、きっと多分止まれていた。止まりたかった。
 受け入れられるなんて期待はしない。受け入れないで欲しい。身勝手だけどストッパーがあれば、僕は正気に戻れる気がしていた。
 でも、こいつはなにもしなかった。いや、「なにもできない」の間違いだ。体も動かなくて、声も出せなくて、息の一つもろくにできないくらい、傷付いてしまったと思っていた。
 ずっと、死んだ人形みたいだと。

 僕の問い詰めには「あー」とぼやきながら左上を見ている。
 嘘も取り繕いもなく恐怖も感じていないだるそうな顔だ。
「口を開くと悪意が出るから?」
「なんだそれ」
「むやみやたらに撒き散らさないようにしようかと」
「……一松?」
「よく分かったね」
「馬っ鹿じゃねぇの」
 予想の遥か斜め上をとんでいってしまった返答に、思わず足の力が抜けてしまう。
 なんだアホらしい。まともに付き合って損した。あまりにも馬鹿っぽい。もういいや、早く家に帰ろうと、途中で突っかかったままだった足を靴に入れ直す。
 なんだそれ。馬っ鹿じゃねぇの。んなもん、六つ子じゃなくったってわかるわ。
 僕は本当にこいつのことが嫌いだ。
 お前はなにも分かってない。
 悪意はそんな露骨に近づいてこねぇよ。もっと親しげな隣人の顔してやって来て、いつの間にかそこにいるんだ。怖がりの弟がうがった妄執を真に受けるなよ。
「あんまアイツで遊んでやんなよ」
「えへ」
「僕らの中でお前のこと好きになるやつなんか出るわけねーだろ、アホらしい」
「それはどーかなぁ」
「なに、トッティ辺りが本気にでもなんの?」
「そうじゃなくて」
 戯れに後ろを向いたら、きれいに曲がった針金だけでつくった顔がニヤニヤと僕を見下ろしている。
 後ろの蛍光灯で影がかかって、見えづらくて、喋らなくて、お前、ちょっと怖いよ。
「チョロ松が私に惚れてることは、ずっと前からよく分かってるよ」
 目が笑う。
 針金の曲がりが深くなって、瞼が盛り上がっても、口角が上がっても何も信用できない。こいつがどんな感情をしているのかわからない。
「お前、マジで言ってる?」
「マジマジ、大マジ」
「……悪いけどないわ。それ、お前の思い上がりだから」
「うんうん。それの根っこはおそ松とかトド松とか、他の兄弟に対する対抗心でしかないね。君は他の兄弟と一緒の群衆でなく一個人として誰かに認められたいと思って、たまたま近くに転がっていた私を拾っただけだ」
「人の話」
「手が届かないアイドルじゃなくて、一から関係を築き始めなきゃいけない赤の他人でもなくて、そこそこ認識も付き合いもあって、でも君たちとは同化してない、同化できない手頃な人間」
「……」
 風呂を出たあとのことなんて、まったく考えてなかった。
「私は君が心配するよりずっと悪意に自覚的だよ」
 どうせ本気じゃないと思っていた。
「そして使いどころをよく分かってる」
 一度悪いものを拾うとそれだけを増幅させることに固執する癖があるから、顔を近づけるのも、手を伸ばしてくるのも、その場限りの嫌がらせだと思っていた。
「お望み通り君だけを一人の個人として認識してあげたつもりだけど、どう? 楽しかった?」
 そうしては僕にくちづけを落とす。

 尻尾を巻いて逃げる僕の背後でがにこやかにわらっている。
「じゃあね、チョロ松。また再来週」
 再来週なんて、もう来れるわけがなかった。




 なにがしたいのかよくわからなかった。
 アイドルのファンをやめて、海外に留学して、インターンシップを受けて、今度こそ本気で就職しようと、ただ自分と違う人間になりたかった。
 拒絶したかった。受け入れたくなかった。切り離してしまいたかった。こんなものは自分じゃないと。そうやって、あらゆるものからじゃなく、たった一つのものから逃げてしまいたかった。
 でも、できなかった。自滅した。
 受け入れたら今度は優しくしてもらえるかと思ったけど、酔い止めをくれた彼女には突き返されて結局楽園を出て行ってしまった。
 僕は結局、なにがしたかったんだろう。
 深夜、みんなが寝静まる布団の中で青暗い天井を見つめる。
 ずっと自分だけは違うと思っていた。
 六つ子なんてロクなものじゃない。これは呪いだ。早く落としてしまわなかった醤油のシミのような。抜いても抜いても生えてくる雑草の根っこのような。
 こんなクズたちとは早く離れてしまいたいと思っていた。確かにそう「望んでいる」のだと、僕は本当にずっとずっと思っていた。
 でも、もう手遅れだ。
 本気で離れられるなんて思ってなかった。
 本心では一生離れられないと思っていた。
 いつから上手くいかなくなったんだろう。昔はもっと、あとちょっとだけ、上手にできていた気がするんだけど。でも、その万能感はそもそもおそ松のものだった気がする。
 結局あのバカが全部駄目にしてしまったけど、内定が決まったとき、本当はすこしだけ悲しかった。
 あんなに離れられないと思っていた輪の中から、足元にしがみついて離してくれないと思っていた手の中から、別れられると思ってしまったから。
 輪は個になることができない。
 どんなに個性をとりつけても。
 どんなに離れようとしたって。
 そんな、現実のようにまとわりついて、ずっと一緒だと、ずっと同じだと思っていた場所から、すこしでも離れていける、わずかでも分かれてゆけると思ってしまったから。
 切り分けられたくない。分離したくない。一人はいやだ。
 なのに、僕たちは違うものになれる可能性を知ってしまったから。
 ずっとみんなと分かれたくなかった。
 みんなと同じ人を好きでいたかった。
 寝返りを打って横を見る。
 隣で眠る十四松は僕とは全然違う人間だ。





 空気に混ざるしめりけがうっとおしくなってきた頃、久々にあいつのボロアパートの前まで来ていた。かたわらに咲いている紫陽花の色が淡くて、肩こりになるまで凝り固まった緊張をすこしだけ和らげてくれる。今日はいい天気でよかった。めちゃくちゃ逃げてしまいたい。
 人気のない道路の脇で、電柱につかまりながらいつまでもガタガタと子鹿のように震えていたくない。醜態もはなはだしい。僕の方が通報されそうだ。
 行け。行ってしまえ。お前は今、松野おそ松だ。テンションだけのがさつ人間だ。へらへら〜と行って、へらへら〜と報告できる。そうだ、それだ。それならいける。これでできないなら家に帰って目的と目標と報酬の最低ラインを考え直せ。大丈夫。俺は今、松野おそ松です。よし「チョロ松?」「ひぃやぁああああああ!!」
「そんなところで不審者されると近所から悪評立つんだけど……」
 両手に大きなゴミ袋を持った住人が僕に胡乱げな目を向けてくる。あああ灰色のトレーナーにスウェット姿……全然かわいくない…………。
「どうした? する?」
「あああああ開口一番にそういう爛れたこと言うなよ!! 僕たちそういう関係じゃないだろ!?」
「ははは、ほとんど変わらないことヤッてたくせに何を言う」
「風俗かよ!?」
「元気だった?」
「…………ぼちぼち」
 人生で思い出したくない記憶ナンバーワンとして形成された想い人は、存外なんというか、まあ、割と元気そうだった。
 は僕と反対側の電柱の根元にゴミを置き、普通の親戚みたいな話題を振る。
「なんだ、ダヨーンの腸の中で生涯を共にするお嫁さんと守るべき家庭を見つけたんじゃなかったの? っていうかう●こ臭いねお前、この網のなか入る?」
「お前とトド松の関係あけすけすぎない!? っていうか、う●こって言うなよう●こって!! 女の子はもっと柔らかくて清らかで守りたくなるようなものなんだよぉおおおお!!」
「童貞の発想だなぁ」
 最悪な近況報告だった。
「もういいや。足疲れたからなか入れて」
「網の?」
「家だよ家に!! ケツ毛燃やすぞ!?」
「なんで? 飽きたんじゃなかったの?」
「入れてくれなきゃこのままテメエの部屋の前で、紙のスマホとタブレットつかってIT系営業マンの繁忙期(想像)してやる」
「うわ、痛々しい。やめてほしい」
 真顔で返したはそそくさと家のドアを開けてくれた。よかった、話の分かる奴で。
 玄関で慣れない革靴を脱ぎながら、そばで立ったままのに話す。
「別に、飽きたんじゃないよ」
「嫌気がさした?」
「お前もう喋るな」
 タチが悪ぃなクソ。
「就活してたんだ」
 口をふさがれたは目だけで「へぇ、インターンシップ? 自己満足でポーズだけの?」と雄弁に語ってくる。別に声が出せないからって心配することはなかった。あの過去はゴミに捨てよう。
「試験受けてたんだ」
 さっきまで性悪な表情しかしていなかったの目が初めてきょとんと丸くなる。この話はトッティから聞いてなかったのか。あいつの話題偏ってんな。理由もなんとなく分かるけど。
、僕、警察官になったんだ」
 それで、合格したんだよ。
「君を守るよ。もう怯えなくてもいいように」
 ずっと、そんなポジションになれないと思っていた。守るのはいつもおそ松かテレビで見るヒーローの役目で、ずっと自分には縁がないのだと諦めていた。今回だってとっくに手遅れで、僕はなんの役にも立たなかった。
 自信がなかったんだ。だから幸せになってほしくて手放した。幸せになってほしいから追い出したのに、世界は全然やさしくないから。
 醜悪で窮屈で気味の悪い、そんなところにはいたくなかったのに、楽園からは突き放された。
 桃源郷にはいられない、あんなに一緒だと思っていた呪いですら解けていきそうなのに、現実にはしがみつかれた。
 思ってもない理想に同意して、表面を取り繕って、反吐を出しながら、それでもこの世界で生きていかなきゃいけない。
 それならせめて。
「……仕返しとかして、捕まらないでね」
「しねぇよ。お前の嫌がることはしない」
 好きな女の子の一人くらい、守れるようになりたいと思ったんだ。
「今日は、一緒に寝よっか」
 硬直してロクに動けもしない僕の脇に、はあまりにも軽やかに腕をまわす。
 こいつに助けなんかいらないのかもしれない。それでも、手頃だからじゃないよ。路傍の石なんかじゃないよ。僕は、ちゃんと、お前がよかったんだ。



「って本当に寝るだけかよ!!」
「ははは、童貞の発想だなぁ」
 いそいそと自分のベッドに戻っていくに、僕の視線はかえりみられることはない。っていうか、これはあれだな。二度寝だな? 怠惰……。
 なかに潜りきったが手招きをするので、仕方なく僕もボタンを外していく。実のところ緊張しているからゆっくり脱いでいこう。
 …………そういえば。
「お前、なんで今日スーツだったのに僕だって分かったの?」
 布団に入る前に聞いてみたらふきだされた。
「きったねぇ!! よだれ!!」
「はいはい、近所迷惑だよー。おとなしく寝よーねぇー」
 前髪をかきあげられてデコチューで誤魔化された。もうやだ。なんでこいつ、こういうこと平気でできるんだろう。また平気で抱きついてくるし。寝るだけなのに。
「チョロ松、好きだ。本当は、ずっとこうしたかった」
「……」
 僕たちは、そんなピロートークができるような、ちゃんとした関係でもなかったのに。
 動かない腕をはげまして、細い背中になんとかなんとか手をまわす。
「──────……  」
 僕はずっと、お前のことが嫌いだと思う。