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 気の緩い和室だった。真ん中のコタツに入り、左手の指の先、ベッドの脇にはジャンプが平積みされていて、その横にあるテレビの台座は段ボール箱だ。煙草の匂いはしないが、もとは白かったであろう壁紙も純度が落ちてうっすらと色がついている。単純に古いんだろうなぁと思った。
 コタツの上には大皿に盛られたきんぴらと筑前煮を混ぜたような、よくわからない茶色いおかずとそれぞれの前におそらく無理してつけたした卵焼きと、色のかぶった味噌汁と、あとおまけの味付け海苔。成長期だと思ってか、単純におかずがないことへのカサ増しか、茶碗替わりに出された中鉢には小さな山を作るようにご飯が盛られている。ちゃんとした家庭を模った一汁三菜(三菜?)。そいつらの直線上、僕の正面には早々に家族を取り繕うことなど放棄した他人が、一人ひょいひょいと食を進めている。知らない人間を上げているのに、周りを神経質に見回したりふとした物音にビクついたりする様子はまるでない。もっと距離をとりたいが、四畳くらいの小さな部屋で、後ろはベッドで逃げ場がない。せめてもと、背中をピッタリとベッドにつける。どうせご飯に手をつけるつもりはないし、柔らかいものにくっついているのは安心する。別に家でそんなにピッタリ寄り添っていたわけじゃないけど(気持ちわりぃ)。そう遠くはない距離に誰かはいたから。(僕はそれでも皆からは少し距離をとっていたけど(すみっこが好きだ))
 ああ、家に帰りたいなぁ。それか猫に触りたい。
 気の抜けた、一人を満喫するには割と申し分ない、小さな和室。ここが僕の軟禁場所だった。




 皆さんこんばんは。お久しぶりです。松野一松です。元気にしてましたか? 僕は相変わらずのうのうとクズをしています。生きてて残念だったねぇ。
 突然ですが、誘拐されました。
「お腹空いてない?」
「どうぞお構いなく。僕はただの粗大ゴミですから」
「そう」
「大体こんないたいけな未成年捕まえてなにがしたいの? 性犯罪? 擬人カレシ? 猫あつめ? 変態なの? クズの収集癖でもあるの?」
「君、結構自分のこと好きだろ」
「こんなことに時間とお金を費やされるあんたの人生がほんと可哀想……」
「うっさいクソガキ」
 まさかここまで酷いとは思わなかった。一応まともに凡俗な社会人やっていると信じて疑わなかったのに。
 そう、ショックを自覚するまで気付かなかったけど、僕はこいつが曲がりなりにも真っ当な人生を送っていると信じてたみたいだ。
 犯人の名前を知っている。僕の地雷原。一番の鬼門。できることならさっさと田舎に帰って今後一切関わらないで欲しい赤の他人。忌々しい我が天敵。
 犯人の名前は。僕らの従妹だ。
 そもそもどうしてこんなことになってしまったんだろう。季節は少し暖かいし、背は縮んでいるし、なぜか学ランを着ているし、松野一松は他にいるし。僕は極寒の夜の街をあてもなく彷徨っていたはずなんだけど。
 ……あー、そういやこいつ、確かガキ連れ込んで破産したって、十四松が言ってた? ようなー……? えー、じゃあ僕がさしずめその男の子ってことか。外見めちゃくちゃ僕だけど。懐かしき学生時代。もうホックを止めている真面目さは持ってないので外しました。って、……あ? 待って。ちょっと待って。そいつ確か、カラ松編で死んでなかった? え? じゃあなに? 俺このあと死ぬの? えー、えーー…………。
「気が重い……テンションが下がる……」
「ご飯冷めるよ」
「いいんです。どうせ僕なんてこの世の誰からも必要とされてないクズなんで……」
「なんだ承認欲求か? ツイッターとピクシブはやめといた方がいいぞ」
「別に……。というか本当に使い道ないし、なんの役にも立たないし、寝て食うだけの穀潰しが承認だなんて笑わせるよね……」
「ああ」
 は納得した顔をする。
 そう言っておけば、周囲を落胆させることもない。
 そう言っておけば、期待で潰されることもない。
「最初から悪い、下だって言ってれば、それ以上評価下がらないもんね」
 賢い判断だよ、と一滴すら思ってない顔で嗤われた。
 悪意。純然たる悪意だ。わあ。こいっっっっつのこういうところが嫌い!!!!!!!!! 誰だよこいつが死にそうだなんて言ったやつ!? 死なねぇだろ!! どーみても世にはびこりまくるだろ!? 風呂場のカビみたいに!!! 風呂場のカビみたいに!!!!!!! カラ松の奴だって忠告したのに聞きやぁしねぇし!!! 人がどれだけ傷抉りながら言ったと思ってんだよ馬鹿!!! 死ね!!!!!!
「邪魔だったら捨て置いてくれて構わないですけど」
「明日は可燃だからなぁ」
 いけしゃあしゃあと言い腐るは両手を合わせたあと、食器を片しだす。僕の前に出したおかずにもラップをかけて、座ったまま背中の冷蔵庫を開けると、それらを閉まった場所から取り出したプリンを目の前で揺らした。上から餌を見せつけるように、ぷらぷら、と。
「死ね」
「出て行くなら、家か警察に行きなよ」
「……」
 出口を塞いでる奴がよく言う。
 僕の目の前、の背後には右から冷蔵庫、台所、玄関、トイレのドアと並んでいる。生理的欲求を取捨する権利は全てあいつの手の届く範囲だ。対して僕の側はベッドはあるが、後ろに窓もなく右は背の低いタンスと、左のジャンプと、逃げ道も逃げるのに役立ちそうなものも何もない。読み古されたジャンプを投げてみたところで八つ当たりや一瞬の威嚇にはなるかもしれないが、あいつの横をすり抜けて外に出られるまでの間を稼げるかと言われれば心許ない。どのみちこの空間すべてがこいつのテリトリーであることには変わりない。ここでの選択肢など僕にない。
 僕はその日、結局なにも口にしなかった。





「おい、うちはペット不可なんだ。遊ぶなら外にしろ」
 台所の柵格子からすり抜けてきた猫と部屋の隅で戯れていると、余計な声が上から降ってきた。
「へぇ、このボロ屋敷にそんなルールあんの」
「あるわコラ」
「今日は随分帰ってくるの早かったじゃん。どうしたの? クビにでもなった?」
「……」
 ひくりと口元を引き攣らせながら笑う。目に込められたイラつきにちょっと気分が上昇する。喉の上に乗せただけくらいの声量で口ずさみながら、猫の足をつまんで膝の上でちいさく踊る。ベッドの上は毛だらけだ。まあいいか、もう俺がずっと寝てるし。が大きなスーパーの袋を床にドサッと置いていても特に関心はない。冷蔵庫に今日のラップのかかった夕飯がなかったことも別に興味のないことだ。僕は食べてないし。
「あ、昼も食べてない。そんな蟻の蓄えみたいなことしなくても帰ってくるのに」
「うるさい」
「わかったわかった。悪かったって」
 一人暮らしの冷蔵庫はそんなもんなのか、基本的に蓄えがない。その親子丼を食べてしまったら、残りはキャベツと水だけで過ごさなきゃならなかったんだ。なんだその生活は、ウサギか。
「せめてラーメンでも買ってきとくか。なんか君そればっかり食べそうだからあんまやりたくないんだけど」
「誰がスコティッシュフォールドだ」
「言ってねえよ。猫外に出せ、外に」
 猫の話題を出してしまったら友達を取り上げられそうになったが、僕も手を離さなかったし、彼には噛み付かれていた。はは、だっせえの。ざまあみろ。外に出すことを諦めたは、舌打ちしながらコロコロだけ投げてよこした。よかったな。今日ちょっと寒いもんな。
 仕方なくコロコロをコロコロすると居場所がなくなった猫は目の前のタンスに飛び移る。上がる際に側に立てていた写真が倒れた。だが、腰を落ち着けられた彼は満足そうだ。仕方なく僕がベッドに落ちた写真立てを拾うと、そこには実に仲睦まじく平穏な理想型の家族がいる。大きな父親に抱き上げられた幼女にその隣で優しく微笑む女性。すげー円満そう。瞼は変に凝るし喉は詰まるし舌の先がピリピリする。視線を逸らしてタンスの方を見れば、倒されなかったもう一つの写真が目に入る。ロウソクを立てたホールケーキを前にした女の子の写真。こっちもやっぱり小さい頃の写真だ。なんでこいつ昔のばっか飾ってるんだろう。今は幸せじゃないと過去に縋ってるからだろうか? そうだと嬉しい。
「あんた父親いるの?」
「? いるよ?」
「え?」
「ん?」
 僕は一回もこいつの父親を見たことがない。
「…………──────なんでもない」
 あっぶねぇ。と赤の他人である少年Aがこいつの家族を見たことないのは当たり前だ。そんなことは知る由もない。なんだ、ここ世界線が違うから叔父さんも普通にいるのか?
「そ、そういやさ、年末とか実家帰ったりしないの?」
「その時までいるつもりか。いい加減帰れよ」
「帰ればいいのに」
 その方がいい。僕も安心する。のびのびできるし。元の世界に帰れるかもしれないし。
 テレビで見た今日の日付はハロウィンもまだ来てなかった。僕が家を出たのはチョロ松兄さんが就職した後だ。トド松が一人暮らしを始めて、カラ松も家を出て、十四松もバイトが決まったその後。ここで最初に目が覚めたとき、僕は外で寝ていたのに暖かかった。コンクリートのごつごつした感触と、少しだけ湿った土の匂いが混じった柔らかな気候。あまりにも穏やかな朝に困惑したまま帰った実家に入れず時間を潰すこと数時間。そこから大人の僕が出てきた。猫背で、紫のパーカーを着て、僕以外の、他のやつもいて。あまりにもいつも通りの、何もかも変わる前の平和な日々の。
 でも、いつかこんな日が来るのはわかっていた。
「人には散々帰れって言う癖に」
「いいんだよ、歳をとったらそんなもんだし」
「心配しないの? こんなに仲良いのに」
 今のは嫌味だ。ただの悪意だ。いつかのちょっとした復讐だ。
「別に。それは昔の写真だから」
 僕も、こんな風に言えたらよかったのに。
 いや、口では言えるはずだ。そういう振りは得意だ。俺はずっとそういうことに慣れるように練習していた。
 個性を持ったんだ。今回のはたまたまだ。今までだって「ここまで至らなかった」だけで、「その手前まで行きかけた」ことはたくさんあった。
「ふーん、そういう「しあわせな家」にいたから拾ったのかと思った。あんた優しいんだね」
「君が子供だからだよ。大人だったら興味ない」
「今すぐここから出せペド野郎」
「おっと、まずった。そうじゃなくて酔っ払いがゴミ捨て場に埋もれてても自己責任だけど、未成年放置しといて野垂れ死なれたりなんかしたら後味悪いだろ」
「信用ならねえ……」
「家にいたくないときもあるだろうし、君個人には興味ないよ」
 トッティがバイトを始めたときだって。十四松に好きな子ができたときだって。
「自分がそうされたかった?」
 苦虫を噛み潰した顔を見て少しだけ胸がすっとした。
 けど、はそのあとすぐに表情を消した。害意がない、悪意がない、関心がないからいっそ優しいとも取れる目で。
 すごく見慣れた顔だった。
「いや、あんま興味ないな」
 いつか、ちゃんと独りになれるように練習していた。
 俺は自分が駄目だってことだけは、ちゃんとわかってたよ。





 埃が反射する光のあわいがいつもと微妙に違うから、少し寝過ぎてしまったんだとわかった。
 コタツに置かれたおにぎりを食べ終わって、台座に顎を乗せて背を丸める。
 布団を叩く音もしないし、掃除機をかける音もしない。猫も既に家にはおらず今日も来てくれるとは限らない。
「腹減ったな……」
 先週号のジャンプを閉じて横になる。もうお昼も近いから昼飯を食べてしまってもいいんだけど、もっと不健康なものが食べたい。
 コタツの台越しに黒くなった換気扇が見える。埃と油が混じって癒着した元の色が見えないそれ。その下に締められた小さな窓があって。横に視線をずらすと玄関があって、誰かが帰ってくる気配など全くしない、静かな玄関。
 僕はコタツから這いずり出て、冷蔵庫の扉を開ける。昨日たくさん買ってきたみたいだから何か入っているかもしれない。
「……ない」
 冷蔵庫の中は食材はたくさん詰まっていたが、プリンやゼリーなんかは全く置いてなかった。
 嘘だろ。なんもない。冷凍庫にアイスもない。一人暮らしなのに。こんなもんなの? 俺、一人暮らしって、明日のおかずの材料はなくても嗜好品は入ってるものだと思っていたのに。い、いや、食べたいのはポテチとかだし。でも目に見える範囲にはなんも置かれてない。みかんとかバナナもない。悲しい。台所の棚とか置いてあるかな。怒られるかな。怒られるかな、でもそういうところにラーメンとか入ってるの定番だし。あ、でもラーメンは昨日言ってたからないか…………なにこれ。
「なにこれ」
 声にまで出して言ってしまった。え、あ、なんだこれ。ごめん、ごめん。説明したくない。なんだよこれ。
 僕は逃げ出した。
 あんなに出られないと思っていた玄関のドアノブを触って。飛び出して。階段から転げ落ちそうになりながら。走って、走って、できるだけ遠くに。
 駅の近くの街中まで逃げて、周りに人がたくさんいることにいつもの真逆でようやく安心して、上体を折り曲げ口を手で覆う。
「なんだよ、なんだよあれ……」
 あいつが叔母さんと仲が悪いことは知っていた。だから上京の理由もせいぜいそのくらいだと思っていた。忘れていた。彼女がいたことなど気にしていなかった。僕たちのなかではいないも同然だった。もしかしたら、トド松なら、写真を見た時点で気付のかもしれない。でも、見間違いだと思っていた。そんなことがあるという発想すらなかった。
 写真の隅に記されていた年に、僕たちはまだ生まれていない。同い年だが僕たちよりあとに生まれた従「妹」のがそこにいるはずもない。
「とうとう一松も出ていっちゃうかぁー」
 突然呼ばれた名前を耳が拾う。駅の入り口付近、たくさんの人が入り混じる煩雑な人混みの中でも見慣れた赤色はすぐに見つけられた。けどその人は、俺の方なんか見ちゃいない。
「……バイト安定しだしたら遊びに来てもいーよ」
「えー、めんどくさーい」
「ですよねー」
 入り口前ではどこかに旅立とうとしている「俺」を、この世界のおそ松兄さんと母さんが見送りに来ていたみたいだった。あんたこの世界でも残ったのか。まあでもあんた、そういう人だよな。きっと他の兄弟も皆出ていってるんだろう。横にいた母さんは朗らかで、穏やかで、ほんの少し寂しそうで、その姿がいつもより「老い」を感じて、あの人もこんな風になったのだろうかと心配になる。
「ちゃんと正月とかには帰ってくるから」
「ん〜……」
「あんまり父さんと母さん困らせちゃ駄目だよ」
「へいへい」
「元ニート、ちゃんとご飯食べるのよ」
「うん」
 この世界の「僕」は、「僕」と言うにはあまりにも棘も含みもない受け答えをしていく。あの男は誰だ? 自分の見ているものが信じられなかった。
 俺の外見で、俺の性格で、俺の生き方で、そんなどこの家庭にでもいそうな、平凡な、いかにも理想的な「自立する息子」を振舞えているんだろう。食べた物が違うから? 世界線が違うから? でもお前もほんの数日前まで、今この時だってニートなんだろ? なんで就職できたの? なんで誰かを頼れたの? 羞恥や臆病や遠慮から、家族にも友達にも頼ることができなくて、それでもただ離れていく皆に倣って当てもなく出ていくような駄目人間。それが松野一松なんじゃないの? やめてほしい。見せないでほしい。僕と同じなりをして、「もう少し頑張れば正当な道を歩めた」姿なんて見せつけてくるなよ。なんでお前、皆と離れて平気なんだよ。
 そんなふうにずっと見ていたら、おそ松兄さんにバレた。
「……」
 緊張していた。焦りがじわじわと全身を侵食していった。
「…………」
 どうしようどうしようと頭に広がる動揺は、体に命令を届ける肝心なことだけ無視して無駄な思考ばかりを脳に埋め尽くしていく。
 そうこうしている内に視線はそらされた。おそ松兄さんから。なんの興味もなく。あっけなく。
 そっか。そんな気にしなくてもなにもしなくてよかったんだ。
「……はは」
 そっか、だって他人だもんね。俺、あんたの兄弟じゃないもんね。っていうかここの人間でもないもんね。
「帰ろー母さん」
「あんたもそろそろ自立しなさいね」
「松代様! わたくし、今日はハムカツが食べたいであります!!」
「ニート、母さんね、今度は小さい子の面倒が見たい」
「プレッシャーが重い」
 繊維に沿って小さな光がピリッと走って、裾の端から焦げていく。
 周りの人が悲鳴を上げて逃げていったり距離をとって離れていったり、自分を中心にして軽く輪のようになっていった。人体が燃えるにおいって臭いよなぁ。タンパク質の焼ける臭いだ。薪のようにはいかない。でもどんなにボロボロ焼けていってもこれ、本当に燃焼されることはないんだよな。痛みはないし熱くもない。髪の毛や表面は少し焦げるが(そして臭い)、燃え尽くして灰になってしまうことはない。僕の腕は、まだ骨に肉がついたまま黒くなって青い炎を噴き出している。
 なんで家に帰れないんだろう。
 どこに行けばよかったんだろう。
 元の世界に戻れたとして、皆のいない場所でどう生きていけばよかったんだろう。
 たくましい野良猫になりたかった。それができないからせめて燃えるゴミになりたかった。
 ゴミみたいに捨てられて、本当に燃えて終わりになりたかった。
「あ、おかえり」
「は?」
「なんか、焦げ臭くない?」
「………………え?」
 ちょっと待て。俺は今、どこにいる?
 上を向くと、昼間足を躓きかけたボロい鉄製階段。外に出てなかったから正直あまり馴染みはない、それでもまだはっきりと見覚えのある鉄格子。内側まで想像できる玄関のドア。小さな古臭いボロアパート。
 時間は夕食時。いつの間にかそんな時間が経っていたのか、夕暮れ染まる狭い道路で僕は間抜けに立ち尽くしている。遠くでカラスの鳴く声が聞こえる。
 来るつもりはなかったのに。
 逃げ出したつもりだったのに。
「あああああ」
「……大丈夫?」
「あーーーーーーーーーー!!!!!」
「え!? あ、おい!!」
 もっかい逃げた。
 ダッシュで逃げた。
 もうやだ。もう少し計画性のある人生を送って欲しい松野一松。近くにあった左の角を曲がって細い路地に滑り込む。住宅街の中でそこに住んでいる人しか知らないような道ばかりだ。右と左と何度も曲がって、走りまくって、ぐちゃぐちゃになって行き止まりに着いてしまった。
「……っしんどい! 死ぬ!!」
「じゃあ死ねよ馬鹿ぁああぁあああ!!!!!」
「酷いな君は!!」
 後ろには膝に手を当てながら肩で息をするがいる。
「なんで追いかけてくるんだよこの馬鹿!!」
「え、なんでだろう……逃げられたから?」
「犯罪者! ペド野郎!!」
「違うって」
「興味ないなら構ってくんなよ!!」
「前も言ったろ、帰るなら家か「帰る場所なんてねぇんだよ!!!!!」
 叫んだ言葉には目を見開いている。
「帰る場所なんてない!! ここに俺の家なんてない!! だから無駄なんだ!! お前のしてることは全部!! 全部!!」
 喉が焼け切れそうだった。
 胸が張り裂けそうだった。
 走り回った後の息切れと見ないようにしてきた真実を口にしてしまったことの息苦しさで、もうロクに喋れない。喋りたくない。このまま溶けて砂になりたい。
 肩で息を切らしながら死刑宣告を待っていると、裁判長は瞼を静かに下げて目を細める。
「────わかった、帰ろう」
 腕を取ろうと伸ばしてきた手を叩いたら襟首を無理矢理引っ掴まれた。右のデカい荷物に邪魔くさそうにしながらもは来た道を迷いなく戻っていく。不機嫌そうに前を向いた横顔も、解かないから奇妙な角度に曲がった手も、それまで一度も皮を剥かなかった頑なを露骨に見せているから訳がわからない。今までもっと、どっかで剥ぎ取ったぶよぶよの毛皮みたいなのを被っていたのに。
「なんで」
「……」
「なあ、おい」
「…………」
「聞けよ!! なんで!?」
「子供を守るのは、大人の義務だ」
「またそんなん」
「大丈夫、君は家に帰れるよ」
「…………だから、そんなの、ねぇんだって」
「いつか、うちじゃなくて、ちゃんと元の家に帰れるから」
「慰めですか」
「事実だよ。お前らのしぶとさも腹立つくらいの接着具合も」
「……  」
「なんでそんな心配するかなぁ。外から見たら全然離せなさそうなのに。ほんと、どいつもこいつも信じらんない」
「なんで、」
「だからそんな悲観するなよ  」
「────ぼくの、」
 僕の名前知ってたの?
 そう聞いたら、可笑しそうに「その精度で誰になりきれてると思ったの」と笑われた。





「上手いこと言っちゃってさ、結局自分のために利用してたんだろ?」
 暗闇の中、僕たちは向かい合っている。僕はベッドで、は下で畳んだコタツ布団の中に入って。僕の口は相変わらず恨み言しか吐かなかった。
「家族と上手くいってなくて社会にも適応できてない、そんな同類で傷が舐めあえるんなら誰でもよかったんだろ」
 は見る気もないだろうけど、見下ろす形になるこちらからはこいつの顔がよく見える。
 もっとも、これだけ相手の顔をまじまじと見るのはこれが初めてだった。いつもは壁を向いて寝たり、僕の意識が落ちるまでにあいつが部屋に戻ることはなかったから。
 どんなに暴言を浴びせてもの顔は涼しげだ。片付けずに飛び出した部屋は、当然のごとく僕が台所で見たものも散らかったままだった。印をつけた東京都の地図に、二十年以上も前の新聞のコピー、少女誘拐、父親殺人、行方不明。その他、乱雑なメモの山、諸々。それが暴かれた跡を見てもなおは「見つかっちゃったか」と呟くだけで、あまつさえ「気にしなくていいよ」と気遣いまで見せてきた。
「居場所のない惨めな人間と話して自尊心は慰められた? 承認欲求は満たされた?」
 一途で、他の何もが目に入らなくて、でも諦めてしまっている奴がする目。
 その瞳が大っ嫌いだった。
「僕がいて楽しかった?」
 下瞼の膨らみも口の僅かな崩れもよく見えた。猫みたいな顔だと思った。
「そうだな、いなくなるとちょっと寂しい」
 ────────────────一緒に、
「…………」
 一緒に逃げよう。
 そんなことは言えなかった。言える訳がない。僕は家族を捨てられない。こいつだって一緒だ。どんなに距離を取ったってこんなにも囚われているのに。
 そこに入り込む隙間はない。もうこれ以上入れ込むスペースなんてない。だから気付きたくなかった。こんなものには。
 許してくれなくてよかった。
 受け入れないで欲しかった。
 ずっと反発していたかった。
『それすら、もらえるものだと思うと愛しい』
 傷をつけた子供が、奥でずっと泣いている。
 受け入れないで。許容しないで。諦めている人間がそう簡単に求めてくれる訳がない。なのに、そんな顔で笑わないで。
 僕は、君の中の唯一になりたかった。
 誰かと変わらない愛情としてしか残せないならせめて何もかも失うように。
 貴女の特別になれないならいっそこの想いもあんたも全部、何もかも忘れるように。




「これ、詐欺じゃないザンスか?」
 軽トラの荷台にはありとあらゆる荷物を乗せていた。背の低いタンスも、ベッドも、布団も、コタツも、テレビも、その台座になっていた段ボールも、古くなったジャンプも、冷蔵庫も、小さな食器類まで全部。
 誘いに乗っておきながら不信感の拭えないイヤミは腕を組みながら目の前の少年を訝しむ。確かに見ず知らずの他人から生活用品を全てタダで貰えるというのは、なかなか上手過ぎる話かもしれない。自分が全て巻き上げられた直後なら、なおさら。
「いらない?」
「いるザンス。貰える物は全て頂くザンス」
「よかった。おじさん、最近色々盗られて大変だったでしょ」
「なんで知ってるザンスか、気味の悪い子供ザンスね……」
 そりゃ強奪した本人だからだ。
「まあいいザンス」
 溜息を吐きながら興味を失くしたイヤミはトラックに乗り込んで、最後に「返して欲しいって言われても渡さないザンスからね〜!!」と念を押し、高笑いをしながら去っていく。
 トラックが見えなくなってきたところで僕は上げていた手を下ろし振り返る。これで部屋の中はもぬけの殻だ。見上げると相変わらずのボロアパート。のどかな昼時に人が出入りする気配はなく、古びたドアから中の悲惨さが伝わってくることも全くない。何の変哲も無い、いつも通りの姿だった。
「帰ってきたら、驚くかな」
 そういうことのためにしたのだから、そうなってもらわないと困るけど。
 さよなら
 帰る家もないけれど、松野一松はいなくなります。
 猫ならこんな見苦しい真似はせず、もっと綺麗に去っていっただろうに。頭の中で何度練習しても、全然上手に消えられなかった。
 覚えていてほしい。憶えておいてほしい。少し好きなだけの他の「誰か」と一緒に混ぜないで欲しい。
 欲張りでごめんなさい。我儘でごめんなさい。傷付けてごめんなさい。
 一生分の傷を付けるから、どうか、僕を、ずっと忘れないでいて。
 急な傾斜に、舗装のされてない柔らかい地面。ぬかるむまではいかないけれど、気を付けないと靴の裏が少し滑る。段々足も重くなってくるし、息は上がるし、肩や他のところの凝りまで出てきて体力の衰えを痛切に感じる。元々暗い上に日も落ちてきて殆ど周りが見えなくなってきてるし、これは、下手したら、本当にいい具合に、死ねるんじゃないでしょうか。所有者にはめちゃくちゃ迷惑かけるけど。
 だってしょうがない。綺麗な水を取るためにそこまでする馬鹿じゃないし、トッティにも教わらなかった。そもそも下衆な話、そういうために来たのだから顔も知らない所有者さんにはには端から迷惑かけるつもりだったのだ。すいません。ごめんなさい。
 ポケットを漁って一つだけイヤミに渡さなかった免許証を取り出す。ああ、これも暗くて殆ど見えないや。見えたとしても本音はもうちょっとマシな写真が欲しかったけど。それこそ寝顔とか。結局一回も見ることもなかった。俺も携帯とか持ってればよかっ…………あ、そろそろマジで駄目かも。ほんと所有者さんごめんなさい。
 意識が薄れて、視界が霞んで、脳みそが程よく重くなってきて。
 そうして僕は全ての記憶を忘れた。







「一松!! 一松、起きて!!」
 暗闇の中、揺り動かされて目が覚める。視界を開くとゴミ箱や段ボール、室外機に埋め尽くされた路地裏にいる。目の前にはおそ松兄さんがいた。
「俺たちセンバツに選ばれちゃった!!」
「おー!!」
「こんなところでマスかいてる場合じゃないって! 早く家に帰って作戦練らなきゃ!!」
 言われて下を向いてみると、確かに下半身を露出させて陰茎を握っていた。
「待って、せめてズボン履かせて」
「も〜、一松キャラぶれ過ぎ〜。いいじゃんそんなの〜」
「うるさいな、少しだけでいいから待っててよ」
 せっつく長男に苛立ちを覚えながらズボンを上げると、何かが左手から抜け落ちる。地面には白いプラスチックが転がっている。四角い形の、名刺やポイントカードと同じくらいのサイズ。表にも裏にも何も書いてない。何だろうこれ。まさか十四松みたいに俺も無機物で抜けるようになってしまったんだろうか。
「一松? どったの?」
 もしかして寝てたんじゃなくて意識がトンでたのか? 何をしていたのか、どんな風にしていたのか、何も全く思い出せない。
「なんでもないよ、おそ松兄さん」
「ほらほら、急いで〜」
 パタパタと軽い音で、明るい方向へ走っていく兄さんを追いかける。
 何もなかったはずなんだ。
 だってそうしたから。全部忘れたから。何も思い出せないから。
 ならそれは、考えなくていいことだ。
 狭い道路を抜けて、開けた街に一歩踏み出す。もう何も脅えなくていい。僕は一人じゃない。いつも通りだ。元通りだ。これで、やっと。僕は。

 家に帰れるんだ。