「トド松は引き際をわかってるよね。私はそこがとても好きだよ」
そう言ったのはこの話とは関係ない、ちょっと歪んだお人好しの言だ。
引き際。
ライン。
過干渉とコミュニケーションの境界線。
ここまでは話して欲しいけど、そこまでは聞きたくない。傲慢と怠慢の話。
そういう話は兄弟でもやった。その人が言うにはやっぱり兄さんたちの方がおかしいらしいけど。まあでも、あの人はうちの兄弟関係に相当ブチ切れていたみたいで、話している内に段々節々から怒りがマグマのように噴出していて怖かった。
その人はカラ松兄さんの扱いについて渋く思…………いや、そこまで好意と関心はなかったかもしれない。どっちにしろ無視までしなくても仕事相手みたいに適当に相槌打っとけばいいのに、と言っていた。僕らはビジネスじゃなくて実の兄弟なんだけど。確かに時々サービスで末っ子やってるけど。だけどそのあとすぐに、構ったら構ったでストレスで胃が痛くなりそう、とも言っていた。
カラ松兄さんは空っぽだから。
どれだけ本人に自覚があってどれだけ本気なのかイマイチわかりにくいが、どんなにたくさん話したとしてそれは話すにつれ親しみを覚えていったとして、それに比例せずあの過剰に装飾された外面でしか話してこなさそうだから。本質が全く見えてこずに辛くなりそう、という話だった。
チョロ松兄さんも同じ理由で却下。一松兄さんは第一声から切り落としてくるのでそこで終了。おそ松兄さんと十四松兄さんについては触れてこなかった。僕はその点、話している内に取り繕った表面しか見せないと気付いたとしても、その頃には僕もそれを悟って離れていきそうだから。度合いの食い違いで苦しむことは何もない。
「そういうの、わかってるところがとても好きだよ」
それはとても、普通のことだ。
秘密を話したってさじ加減は気をつける。その全てが本音とは限らない。そしては僕の不満に合わせて兄弟の不満を漏らす。自分の兄弟じゃなくて、僕たち「きょうだい」従兄のことを。自分の家族のことは全く話さない。そこは開けちゃいけないパンドラの箱だ。あるいは黒いサンタが集めたおぞましい肉袋。皮を切れば何が出てくるかわからない。
話していなくても何かに絶望しきっていたことはわかっていた。おおよそその原因も。でも僕たちはそれに触れてこなかった。
彼女は自分のプライドを守るために、僕は禍に巻き込まれないよう身を守るために。それは互いの理にかなっていた。
もう少し侵食すると彼女の生き方にまで口を出さなければいけない必要が出ていただろうし、いつかこちらに浸透してくる前に距離を取らなければいけなかっただろうから。
僕たちはちょうどいい友人関係を築いていたはずだ。
パチンコに勝つといつもちゃんの家に行く。たくさんのお酒を買って、くすんだ乳白色のアパートの二階へ上がって、押す部分しかないシンプルなチャイムを鳴らして、合言葉を伝えて中に入れてもらう。つまみはいくつか買って行くけど、食べ物はちゃんの方で作ってくれている。「楽なので」という理由で季節感もなく概ね鍋だが、小さなちゃぶ台を二人でつつき合うのは正直楽しい。
「あれ?」
チャイムを押しても反応がない。
「ちゃーん、おーい。梨ー、なしー」
ノックをして合言葉を言っても返事がない。おかしい。家に行くことは事前に連絡していたし、ちゃんからも了承済みだ。来客がくるとわかっているのにちょっと外に出るタイプでもない。寝てるか? それとも緊急事態? ポケットからスマホを出して電話をかけてみる。コール音。七、八……出ない。
「……ちゃーーーん」
もう一度強めにノックする。連続で叩いて急かしてみたところで窓が開いた。え、窓。
「けむっ!! くっさ!!」
開いたのはドアの隣にある小さな窓だ。台所に面した格子窓の隙間からモクモクと白い煙が立ち上っている。
「なにしてんの!? ゔえっほ、生きてる!? ちゃん!?」
煙と刺激臭に晒されながら声をかけてもドアは開かない。焦げ臭い、明らかに焦げ臭い。確実にやばい臭いがしている。中ではドタドタと音がしているから生きてはいるみたいだ。しばらくすると煙が薄くなり、それにつれて鼻や目への刺激が和らいできてから初めて玄関のドアが開いた。
気まずそうなちゃんが視線を外しながら顔を拭う。
「ごめん、寝てた」
「そうじゃねーーーーーー!!」
部屋に入ると、顔の下辺りは暖かかったが指先は外の空気が触れて肌寒い。よかった、壁とかはあまり汚れてなかった。
「さっきのなんだったの?」
「あれ」
靴を脱ぎながらビニール袋を床に置くと、ちゃんが拾い上げながらちゃぶ台を指す。
「七輪……」
「上司にもらって」
「七輪! なんで七輪!? 僕今日家行くって言ったよね!? よりにもよってなんで今日やんの!?」
「練炭は煙出ないよ」
なんで知ってんだよ。
思わぬ返しにちょっとげんなりする。そういう知識があるから半眼で見られても信用ならないんだ。
「っていうかちゃんっていっつも職場の人からなんか貰ってるよね。なんか廃棄場と間違えられてない?」
端に積み上がっているジャンプもそうだ。面白いし、ちゃんも一回は読んでいるみたいだけど全部一週遅れだ。この回てっしーがヤバかったやつだ。
「……あー、実際、残飯処理班みたいなとこあるからな」
「うわぁ」
「あの人好き嫌い多いし」
「どんな上司だ」
ちゃん、何の仕事してるんだろう……。なんとなく格好とか時間的に普通の事務仕事だと思ってたんだけど……。
どこか遠くに感じた友達の実生活にちょっぴり心配になりながら、僕はタンスの引き出しを元に戻す。
「こんなにいっぱい買ってきたら、今日の分ないんじゃない?」
ビニール袋の底に手を当てながらしげしげとちゃんが言う。
「いいのー、今日は気になるやつたくさんあったから」
「ほんとだ、これ可愛い」
「あ、それおいしいよー。度数高いけど結構飲みやすいし。あと、こないだ友達と飲みに行った時にこれとこれが気になってね」
「トド松、よくこのラインナップ買えたね……」
「おいしかったらいいんだよ」
伊達や酔狂でカワイイやってんじゃねーんだよ。
ちゃんのタンスの一番下の引き出しには、これまで換金してきた勝ち分や、たまにしているバイト代をしまっている。前に相談した時、ちゃんは言っていた。家に帰りたくないならネカフェや彼女の家に行けばいいと。残念ながら僕に彼女はいないし、足が遠退く理由は主に所持金の処理のせいだ。もったいなくて使い道はなかなか思い浮かばないが、すぐに溶かさないとハイエナ共に奪られて終わる。それは嫌だ。預金口座を作ったとしても、もう通帳を家に置いていることが不安だ。だからタンス貯金をすることにした。他人の土地で。
「っていうかその七輪本当に使えるの? 不良品摑まされてない?」
「大丈夫だよ。六時間前は問題なく使えたし」
「今日の昼じゃん」
「さんま焼いてたからね」
何でも許してくれて、信頼できて、割と営業時間が長くて、周囲に心配する要因もないとっても安心できる貸金庫。そうなるように仕組んだのは僕自身だけど。
こっそり兄弟から抜け出して、周囲に他に誰もいないところを狙って、末っ子同士だなんて「いかにも」な特別感を持たせて、皆でやらかした嫌がらせを一人だけフォローした。内緒話みたいに彼女「だけ」が知らなかったことを教えたり、謝ったり、慰めたりして、一番最初に群衆から抜け出して誰かの内の一人ではなく僕個人を覚え込ませた。
その刷り込みが成功してからようやく、ちゃんが僕の前では顔を綻ばせるようになってから警戒心を解いて隣にいることを許してくれるようになってからようやく、報復が恐い兄弟の愚痴が話せたり誰にも言えなかった悩みを打ち明けることができた。ちゃんはただ聞いてくれるだけで、明確な答えをくれたりこの状況を救い出してくれたりくれなかったけど、ぶっちゃけ壁みたいなものだったけど、それでよかった。元々カリスマ性や甲斐性とは縁がなさそうだし、期待しすぎると潰される。
「僕だけ」を一番に贔屓してくれる存在ができるならそれでよかった。
タンス貯金について、僕は一応賃貸のつもりで使っているからいくらかは使ってくれていいと伝えているのだけど、ちゃんは手を付けない。だから時々報酬を持って遊びに行く。
「焼き鳥したりタレ作ったりも楽しそうだったから。あとお客さんになんかお肉貰ったし」
「うわー……、高そう……」
「おいしかったよ」
「これ何の肉?」
「さぁ?」
「え?」
「オイシカッタヨ」
「……」
「オイシイヨ、トド松モ食ベナヨ」
「…………」
「おいしければ何でもよくない?」
「よくないよ! 確信は持てないけど多分よくないよ!!」
「……」
「ちゃん?」
「…………」
「ね、ねぇ、なんか言って」
「油揚げとかも焼くとおいしいんだって」
「そうじゃねぇーーーーーー!!!!!!」
死んだ目で嬉々として食材を出された。喜べない! 全然喜べない!! 目が死んでるのはいつものことだけど今だけは直して!! 今だけでいいから!!
綺麗にサシの入った大きな薄切り肉が網全面を覆うように乗せられる。漂ってくる匂いが脳内のなにもかもを消してしまう。香ばしさの中にほんのり甘さがあって、とても心が落ち着く香りだ。ずっと嗅いでると目が零れてしまいそう。溶け出した油が網を伝って下に落ちても、不思議なことに他の食材のような煙が全く出ない。サッと炙られた肉は絶妙な焼き加減で、そっと繊細に僕の小皿に置かれた。
「お食べ」
「……………………おいしい」
「オイシイネ」
「おかわりください」
ちゃんが女神のような顔で肉を焼く。恐い。おいしかった。食べた最中のことがあまり思い出せない。
謎の肉やら野菜やらあらかたの食材とお酒を腹に入れたあと、スペースの空いた網の上をちゃんがじっと見つめる。どことなく目が虚ろでおぼつかない。さっきはこんな形で寝入ってしまったんだろうか。
「……ちゃーん」
「これ、チーズフォンデュとかできるかな」
「あ、できそうできそう。チーズくり抜いたやつやってみよー」
「テレビで見たやつだー」
「リア充がするやつだー」
「でもチーズがなーい」
「ワインもなーい」
「じゃあ架空でやろーう」
「わーい架空だー」
いい具合に酔いが回っているので二人とも語尾が甘い。すごーい。楽しーい。
「まあせっかくだし本物もするか。コンビニ行ってくる」
「あ、いいよ。ちゃんは家にいて」
「えー」
「なんか今にも寝そうだし」
ぼんやりしていることを伝えると意外そうに目を丸くする。
「疲れてるなら断ってもよかったのに」
貯金できないのは困るけど。そりゃあ困るけど。
でもいざとなったらタンスにしまわせてもらうだけでもよかったんだし、あまり無理をさせるのも忍びない。
「んー」
曖昧に濁した反応をする。そういう顔を見るとくすぐったい。多少の疲れをさしおいても、僕を優先することを選んでくれたんだと思うから。ちゃんはへらっと崩した。
「でも楽しみだったし、トド松と食べるの」
「知ってる」
爆弾が落とされた。偉い、よくとっさに返せた僕。すごく偉い。何でなんで急にデレたの!? やっぱりそろそろ死期が近いの!? ありがとー、そんなの言わなくても伝わってるから大丈夫だよーありがとー。
「チーズフォンデュはまた今度にしよう。どっちにしろ点けっぱなしだとまた火事になりかねないし。私もなんか買いに行く」
コンビニでは結局タバコとお茶だけを買った。蛍光灯が等間隔に並んでいる夜道を二人並んで歩いていく。ちゃんの家は少しばかり不便な場所にあって、近場のコンビニへ行くにも五、六分ほど歩いて大きな道に出なければ現れない。オレンジ色の光に照らされてトラックが時折僕の横を通り過ぎていく。大きな道に出さえすればそこは国道だし夜でも案外賑やかだ。僕らの家とは正反対。ここは街に面しているから最寄りの駅も結構近い。
「ちゃん、ちょっと駅まで行こう」
「んあー、家に帰んのー?」
「んーん、夜行便見に行こう」
「なんで?」
「一緒に逃げよう」
「……」
「逃避行に、付き合って。」
掴んだ手首が、解かれる。
僕らの間に、距離があく。
離れたちゃんは酔いも疲れも抜け切った、生温い夜風みたいな表情で、いたって軽く線を引く。
「なんで?」
ライン。
引き際。
ここがお前の境界線だと。これ以上は入り込むなと。過干渉とコミュニケーションを履き違えるなと。
線が引かれる。
「ちゃん言ってたじゃん。取られたくないなら、一番高い切符買って、どっか高飛びでもすればよかったんだって」
「本当に?」
ニヤニヤと目を曲げて後ろに隠した言葉が嘘を吐くなと責めている。
利害とは関係のないやりとりが嫌いなわけじゃなかった。
チョロ松兄さんやヒモ少年には感謝している。彼らが追い出しやトラウマを作ってくれなければ、僕は電話番号を交換することも一緒に遊べることもなかった。
自分だけを特別に扱ってくれる。その利害関係において僕たちは完全に平等に成り立っていた。一人抜け駆けをして親密になるのに兄さんたちに対する優越感がなかったと言えば嘘になる。でも単純に、仲良くなれたと思えるのは嬉しかった。
引き際がわかってたんじゃない。単に、それは、あなたのことがそこまで好きじゃなかっただけだ。
だって今、僕はこんなにも間違えている。
ろくな目に遭いやしないのに、自分だってまずい底に引き摺り込まれかねないのに、失敗するってわかっているのに。失ってばかりで、出ていくばかりで、何の成果も得られないのに、そのラインを踏み込もうとしている。
「欲しいものができたんだ」
「じゃあ家に帰らなきゃねぇ」
けらけら笑うちゃんはすげなく返す。わかっている。タンス貯金に引き下ろしのカードなんてない。
そんなことはわかっている。それを決めるのは彼女の人生だ。多分柔らかくて繊細で、一番大事な決めごとだ。
責任が伴ってくるような深層までは関わりたくなかったし、人の生き方にまで口を出したくなかった。そんな核の部分を自分の独りよがりで邪魔したくなかった。
彼女が「どうしても」と願ったものを僕には止める資格も権利もない。
なんでこんな時間に我慢できなかったんだ。何の計画性もない。酔っ払いの戯言みたいに聞こえちゃうじゃないか。
こんな、なんの実にもならないこと。
「今まで貯めた貯金でさあ、買えるとこまで買って、一番遠くに逃げようよ」
本当に、本当に、そう思っているのに。
それがどこまでが利害で、どこまでを情と呼ぶのか僕にはわからない。
でも好きだ。
もうとっくに大切になっていて。
できれば失って欲しくないと思う。
だけど。
「残念だけど、終電なんてもうないよ」
「……」
様々なことが邪魔をして、ただ一言が願えない。
「ちゃん」
「ん?」
「僕、諦めてないからね」
「……めげないなぁ」
家路につく僕らの足元には一定の距離が開いている。カーディガンから覗く白い腕に伸ばしても届かない遠さ。
僕たちは、ちょうどいい友人関係を築いているはずだ。
「めげないし、諦めないよ。ゴキブリみたいに生きてやるんだから」
「そっか」
「受け入れんなよ!! 僕がゴキブリなら兄さんたち何になるの!? ゴキブリ以下の罵倒を見つけてから肯定して!!」
「え、あ、はい。ごめん」
「…………ばか」
「ごめんって」
「ちゃんのばか、ばか」
「ごめんねぇ」
構われたがりの寂しがりやを気にかけて渡した「特別」を、彼女はたくさん返してくれた。
それ以外のことはどう言えばいいのかわからない。どうすればいいのかもわからない。
三歩前でぶらぶらと揺れる白い手首。
今はまだ届かない。距離もまだ埋まらない。ううん、別に隙間なくくっつきたいとかそんなんじゃないけど。
でもね、もう。
もう離すつもりはないんだよ。